【ネタバレ】『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』それでも私はやるまげどん!

アルマゲドン・タイム ある日々の肖像(2022)
Armageddon Time

監督:ジェームズ・グレイ
出演:アン・ハサウェイ、ジェレミー・ストロング、バンクス・レペタ、ジェイリン・ウェッブ、アンソニー・ホプキンス、ドメニク・ランバルドッツィ、トヴァ・フェルドシャーetc

評価:20点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

第75回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出されたジェームズ・グレイ新作『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』が公開された。ジェームズ・グレイの近作は、冒険もの『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』、SF『アド・アストラ』と変わりダネが多いのだが、一方で根幹には、本能や欲望にまっすぐで開き直ったような人物を描いている。クリント・イーストウッド『運び屋』のように、ジェームズ・グレイも映画を通じて自分の内面と向き合っていると捉えることができる。そんな彼が半自伝的作品を発表した。前2作を踏まえ、どのように自分を捉えていくのかと思って観たのだが、これがトンデモ映画であった。ネタバレありで書いていく。

『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』あらすじ

「エヴァの告白」「アド・アストラ」のジェームズ・グレイが監督・脚本を手がけ、自身の少年時代の実体験をもとに撮りあげた人間ドラマ。

1980年、ニューヨーク。白人の中流家庭に生まれ公立学校に通う12歳の少年ポールは、PTA会長を務める教育熱心な母エスター、働き者でユーモア溢れる父アーヴィング、私立学校に通う優秀な兄テッドとともに何不自由なく暮らしていた。しかし近頃は家族に対していら立ちと居心地の悪さを感じており、良き理解者である祖父アーロンだけが心を許せる存在だ。想像力豊かで芸術に関心を持つポールは学校での集団生活にうまくなじめず、クラスの問題児である黒人生徒ジョニーは唯一の打ち解けられる友人だった。ところがある日、ポールとジョニーの些細な悪事がきっかけで、2人のその後は大きく分かれることになる。

主人公の母をアン・ハサウェイ、祖父をアンソニー・ホプキンス、父をジェレミー・ストロングが演じた。2022年・第75回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。

映画.comより引用

それでも私はやるまげどん!

映画の中のクズは悪魔の果実だ。口達者に周囲を巻き込み、運命の歯車を高速回転しながら破滅していく姿は滑稽である。そして修羅場の宙吊り状態の中で、思わず同情したくなるような瞬間が訪れた時、映画を観たなという気分にさせられる。映画は結局、覗き見の娯楽であり、どんなに言い訳しようともスクリーンの外側という安全圏から登場人物の不幸とやらを楽しむ側面があるので、クズ男が輝く作品は実に映画的だと思う。

しかしながら、そんな私でも耐えられない時はある。WebやSNSマーケティングの世界で「共感」が重要視される時代だからこそ「共感」から離れたところから描く映画が重要だと考える私でも『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』に登場するクズレベル100の少年ポール(バンクス・レペタ)には頭を抱えた。

彼は授業中に、先生の落書きをしたり、家では親の手料理にキレて勝手に餃子の出前を頼んだり、黒人の悪友ジョニー(ジャイリン・ウェッブ)とトイレでハッパを吸ったりと非行に非行を重ねる悪ガキだ。しかし、この悪ガキは実にタチが悪い。窮地に立たされると、「ボクは無垢です。」ムーブをかますのだ。それだけならまだしも、この映画は彼の分身とも言えるジョニーとの対比がグロテスクさを高めている。周囲のあたりの強さは黒人少年の方が高い。あたりの強さの差により、ポールだけが救われていくのだ。そして、救われるたびに「ごめんね」とウルウルした眼差しを向ける。


クズ男が、窮地に立たされた時だけ被害者ムーブをしたり、懇願したりして突破する映画として最近だと『レッド・ロケット』がある。こちらは、

1.「自由はその自由さのために簡単に人を裏切る」本質に迫っている。
2.破壊的行為自体がコメディとして描かれている。

この2点によって面白い作品に仕上がっていた。

しかしながら、『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』では物語の根底に流れるテーマが非常に飲み込み辛いものとなっており、なおかつ非コメディとして描かれているので、不快感を抱くものとなってしまった。テーマの飲み込み辛さについて語る。ポールは学校や家のようなルールに縛られた空間が嫌いで、そこから抜け出す存在としてジョニーがいる。二人は、ポールが白人至上主義の学校に転校することで引き裂かれていく。規律を重んじる学校により息苦しさを感じるポールは、ジョニーを誘惑して学校のパソコンを盗みポールは芸術家に、ジョニーはNASA職員になる夢を叶えようとするが失敗。映画はジョニーが大変なことになっているのを尻目に、学校を背に、「それでもボクはやるまげどん!」と謎のドヤ顔をみせて終わるのだ。半自伝的要素とはいえ、自由を渇望した者が規律に屈服するエンドとしては後味が悪いし、終始ジョニーを避雷針にして最後まで軽傷で済んでいる胸クソ悪さがある。逃げ切るなら軽やかに逃げてほしいし、パソコン強盗の描写をフィルムノワールに寄せた描き方をするならポールを地獄の底に落とすようなクライマックスが必要だったようぬ思える。もしかすると、転校した学校に暗示されたドナルド・トランプ要素やレーガン政権に詳しいと整理がつくのだろうが、全体的に吹っ切れないクズ、セコすぎるクズ演出に乗れずじまいであった。

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※映画.comより画像引用