【ネタバレ考察】『パラサイト 半地下の家族』ブルジョワは今そこにある危機に気づけない

パラサイト 半地下の家族(2019)

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初の最高賞パルムドールを受賞した『パラサイト 半地下の家族』を観ました。本作は、『グエムル-漢江の怪物-』や『スノーピアサー』同様エンターテイメント作品でありながらも、その裏に社会的メッセージや皮肉を封じ込めた作品であります。本記事は、そんなポン・ジュノの隠したモールス信号をネタバレありで解読していきます。日本公開は2020年1月公開なので、どんな映画か気になる人も多いとは思いますが、公開まで本記事を読むのを待ってください。カンヌ公開時、ポン・ジュノは後半の展開について述べることを禁じていました。実際観ると、びっくりする展開が待ち受けており、それは劇場で観て驚いてほしい。だからこれは映画を観た人だけが参考資料として読んでください。ブンブンは警告しました。あとは自己責任で読んでください。

【ネタバレなし】『パラサイト 半地下の家族』パルムドール受賞!ポン・ジュノの圧倒的バランス感覚

『パラサイト 半地下の家族』あらすじ


「殺人の追憶」「グエムル 漢江の怪物」「スノーピアサー」の監督ポン・ジュノと主演ソン・ガンホが4度目のタッグを組み、2019年・第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初となるパルムドールを受賞した作品。第92回アカデミー賞でも外国語映画として史上初となる作品賞を受賞したほか、監督賞、脚本、国際長編映画賞(旧外国語映画賞)の4部門に輝くなど世界的に注目を集めた。キム一家は家族全員が失業中で、その日暮らしの貧しい生活を送っていた。そんなある日、長男ギウがIT企業のCEOであるパク氏の豪邸へ家庭教師の面接を受けに行くことに。そして妹ギジョンも、兄に続いて豪邸に足を踏み入れる。正反対の2つの家族の出会いは、想像を超える悲喜劇へと猛スピードで加速していく……。共演に「最後まで行く」のイ・ソンギュン、「後宮の秘密」のチョ・ヨジョン、「新感染 ファイナル・エクスプレス」のチェ・ウシク。
映画.comより引用

ポン・ジュノ論

ポン・ジュノは、毎回作風を変えながらも一貫して階級社会、貧富の差を描き続けている。これは韓国が、超競争社会であり、家族ぐるみで大学受験を応援し、その結果によって人生が決定しまう残酷さ、閉塞感を普遍的に落とし込んでいると言えます。劇場映画デビュー作『ほえる犬は噛まない』の時点で、既に隣人の素性が分からない現代の息苦しさをコミカルに描いていた彼は、『殺人の追憶』、『母なる証明』で知的障がい者の苦しみを捉えた。『グエムル-漢江の怪物-』では怪獣映画でありながらもアメリカに搾取される韓国人市民を風刺してみせた。そして『スノーピアサー』、『オクジャ/okja』では、富める者と貧しき者の関係性を、前者は列車の車両、後者は怪獣オクジャにメタファーとして投影した。
そんな彼が描く『パラサイト 半地下の家族』はカイエ・デュ・シネマが語っているようにイ・チャンドンの『バーニング 劇場版』以降の『華麗なるギャツビー』たる物語。つまり、富める者と貧しき者の和解することなき隔たりを描いた作品である。そして、今まで彼が描いてきた閉塞感やユーモアが幾重にも層をなしている集大成とも言えよう。

カンヌ国際映画祭のあり方批判

そんな『パラサイト 半地下の家族』だが、本作がパルムドールを獲るのは必然であった。そして、これはここ10年のカンヌ国際映画祭を批評するものとなっている。だから本作を、「また、家族が、貧困が系の映画でしょ」と括るのは問題である。カンヌ国際映画祭は、アカデミー賞とは違い数少ない審査員が20本位の作品の中から最高賞を選ぶ。それは、多数決では選ばれないようなアート映画、暗号のように社会的メッセージが込められた作品を発掘する役割があります。ヴェネチア国際映画祭が『さよなら、人類』、『立ち去った女』、『ROMA/ローマ』などといったアート映画を最高賞に選ぶように。

しかしカンヌ国際映画祭のここ10年の最高賞はどうでしょうか?

2010年:ブンミおじさんの森
2011年:ツリー・オブ・ライフ
2012年:愛、アムール
2013年:アデル、ブルーは熱い色
2014年:雪の轍
2015年:ディーパンの闘い
2016年:わたしは、ダニエル・ブレイク
2017年:ザ・スクエア 思いやりの聖域
2018年:万引き家族
2019年:パラサイト 半地下の家族

2013年の『アデル、ブルーは熱い色』を筆頭に、市井の貧しき者に焦点を当てた作品が毎年のように受賞しています。もちろん、これらの作品はレベルが高い。しかし、批評することすら拒むような潔き映画を前に思考停止しているのではないでしょうか。カンヌ国際映画祭は、高級リゾート地で、スターたちが豪華絢爛な衣装を纏い行われる。そんな会場でいとも簡単にこういった作品に最高賞を与えるのは、ある意味偽善に満ち溢れている。

そういった現象をも『パラサイト 半地下の家族』は皮肉っている。

ブルジョワなパク家の内部で、貧しきキテク一家が家族ぐるみで家に侵入しているのに、ブルジョワは気にしていない。僕たちを適切に扱うホワイト企業っぷりを魅せるパク家であるが、実際には彼らのことなど全くもって見えていないし、地下にかつての家政婦の男が住んでいることすら気づいていないのだ。あれだけモールス信号で照明を点滅させ続けているにも拘らず。一方、貧しき者たちはいかにしてパク家に取り入るか常に考えており、すぐ隣で不気味に蠢いている。

貧しき者からしか見ることのできない世界の形を皮肉っているのだ。この手の家庭侵略系の映画はジョゼフ・ロージーの『召使』に始まり、『ファニー・ゲーム』、『歓待』、『ボーグマン』と多数作られてきた(本作のベースはキム・ギヨン『下女』である。)。しかし、その多くが早々に侵略の存在に気づいてしまう。そこを外し、侵略する側の視点から観ることで階級の断絶による見えざるものを捉えた。まるで『縮みゆく人間』で、あまりに体格差がかけ離れ、認識すらされなくなった小人が比喩として機能しているように。

カンヌ国際映画祭で勝てる映画でありながら、カンヌ国際映画祭が持つ問題点を吸収した批評性に満ちた作品だったのだ。

ピタゴラスイッチのような脚本が至高のエンターテイメントとなる

韓国映画は、社会批判をしながらもエンターテイメントとして大衆を燃え上がらせるところに物語を着地させるのに長けている。市民の関心をカルチャーに向かわせた時代を音楽青春映画として捉えた『サニー 永遠の仲間たち』。超競争社会に疲れた者をゾンビ映画として風刺した『新感染 ファイナル・エクスプレス』、光州事件をコメディ、アクション方向にベクトルを向かせて描いた『タクシー運転手 約束は海を越えて』など枚挙に遑がない。

『パラサイト 半地下の家族』もエンターテイメント作品として楽しめる作品となっている。前半1時間、かけてキテク一家が一人、また一人とパク家に侵入していく様子が描かれる。大学証明書を偽装して、ダヘ(チョン・ジソ)の家庭教師としてギウ(チェ・ウシク)が入り込む。そして、彼は、ダソン(チョン・ヒョンジュン)の子守として妹のギジョン(パク・ソダム)を送り込む。そして一家の大黒柱キテク(ソン・ガンホ)は、パク(イ・ソンギュン)の右腕ドライバーになろうとする。

既にパク家には家政婦のムンクァンジュ(イ・ジョンウン)がいて、彼女にも自分たちが一家であることを悟られないようにする。そして、桃の表面の棘を使って、ムンクァンジュを病気持ちに見せ掛けて解雇させようと作戦を練るのです。しかしながら、結局のところムンクァンジュとは意気投合し、パク家のヴァカンス旅行をきっかけに彼らは最高の暮らしを手にする。

ここまでが1時間だ。

そこからジェットコースターのように一寸先は修羅場を迎える。

かつて、家政婦だった女が夜な夜なパク家にやってくる。びしょ濡れな彼女を嫌々、家に入れると、彼女は猛ダッシュして隠された地下室を解放するのだ。そこには4年近く閉じ込められていた彼女の男がいた。彼はしきりにモールス信号を送っていたのだが、誰にも気づいてもらえなかったのです。キテク一家は、自分たちの楽園が彼らに壊されることを恐れ、家を失いパク家に滞在することを懇願するこの二人の招かれざる者を追い出そうとするのだが、写真を人質に取られて形勢逆転してしまう。

そんな中、災害規模の雨によりパク家が想定よりも早く帰ってくるアクシデントが発生する。8分後に家に着くとのことだが、家は祭の真っ最中でとっ散らかっている。彼らは青ざめ、全力で片付けし隠れるのだ。ここから、まるでピタゴラスイッチのようなバレるかバレないかのかくれんぼが開始する。

ギウはダヘのベッド下に隠れる。その上で「ああ疲れた」で寝始める。彼女が何気なくベッドの縁から下を見ると愛犬がベッド下を覗き込みブルブルと震えているのだ。今にも吠えそう、彼の方向に行きそうな修羅場を、間一髪乗り越える。一方他の仲間は、リビングの机下に潜り込むのだ。こともあろうことか、疲れてすぐ寝室で寝ると思っていたパク家であったが、ダソンは大雨の中庭にテントを張り、キャンプを始めてしまう。夫婦はリビングで寝てしまうのだ。

そして、夫婦はある香りを嗅ぎつける。

「あれ、切り干し大根の香りがする。これってどこかで嗅いだことが…そうかキテクの臭いか!」

観客すらヒヤリとする場面である。

キテク一家に安息の地はない。ダヘがギウにチャットしたことで、ブーブーとバイブがなる。皆が寝静まり、いざ外へ出ようとすると、突然テントが光り輝き、トランシーバーから「パパ、僕眠れない」とダソンの半べそが響き渡る。絶体絶命な局面が釣瓶打ちにされていく。パク家の行動が、修羅場の伏線としてピタゴラスイッチのように展開されていくところに心地よさと戦慄が過るのです。

こういった大衆娯楽映画として楽しめる要素を前面に押し出しているところにポン・ジュノ監督のバランス感覚を感じる。

メタファーを読み解く

そんな本作ですが、映画祭映画として考察したくなるほどの象徴やメタファーが沢山仕掛けられている作品でもある。幾つかの要素について考察していく。

1.大雨

本作において、大雨はブルジョワの無頓着さを強調する働き、そしてキテク一家の立場の逆転を導く要素として機能している。物語終盤、未曾有の大雨によりキテク一家の家は壊滅してしまう。そして市井の人々は体育館のような場所で避難生活を強いられる。それとは対照的にパク家は何事もなかったかのように優雅な生活を再開する。「昨日の雨凄かったね!」としか考えておらず、ブルジョワ仲間のパーティ準備を始めるのです。そしてキテクが、被災地支援の服の山からなんとかものを集め勤務を始めるのだが、パク家は全く気にもかけない。少し、「ちょっとこの車臭うわね」と窓を空けるぐらいしか、市井の深刻さを気にかけていない。そして、その意識できない世界は地下からの狂人が暴走するまで表に出ることはない。これこそ、ブルジョワの意識できる貧民とは氷山の一角に過ぎない皮肉となっているのだ。

また、洪水により糞尿にまみれ、ぐちゃぐちゃになり、家を失う様は、キテク一家が招かれざる訪問者にした仕打ちのしっぺ返しとして機能している。将来のキテク一家を映す鏡として働いているのです。実に巧妙な要素と言えよう。

2.臭い

本作は、臭いを嗅ぐという行為が何度も挿入される。ダソンがキテクの臭いを嗅ぎ、「ボク、この匂い知っているよ。どっかで嗅いだことあるよ。」と続けざまにムンクァンジュに飛びつき、「ムンクァンジュと同じ匂いだ!」と嬉々として喜ぶ場面はスリル描写として使われている。また桃は《気立ての良さ》といった花言葉があり、桃の香りをキテクたちを包むことは、身分を偽ろうとすることへの裏返しとなっている。そして、洪水後の車の中でキテク夫人ヨンキョ(チョ・ヨジョン)が「なんか臭うわね」と言うことは、そういった化けの皮に対する疑惑を描いている。

3.階段

『パラサイト 半地下の家族』に登場する階段は、どれも中途半端だ。キテクたちの住む家は、半地下にあり、街に撒かれる殺虫剤が流れ込んだり、酔っ払いの尿が流れ込みそうになっている。これは、地上を歩く者からはほとんど意識されてないが、半地下からは全てが見えるというこの映画のテーマを表している。そしてパク家の地下世界に続く階段は、深淵の死角となっており、隠れた住人が地上に出ようとしていても気づくことはない。これらの階段は、パッと登ればすぐ上に下に出られるのだが、その行為を行わないが為に気づかない。つまり、水面下で起こっている蠢きを演出する舞台装置として機能していると言えよう。

最後に…

本作は紛れもなく、2010年代を象徴する社会だ。行き過ぎた新自由主義、個人主義によって、富める者と貧しき者との間に大きな断絶が生じている。富める者は、貧しき者のことを気にかけているように見えるが、実は全くもってその形を捉えることができていない。そして、その認識不足こそが、貧しき者のヘイトを買い、復讐されてしまうことを暗示している。

この巧みな脚本、演出はパルムドールも納得である。そしていよいよ次のアカデミー賞で国際映画賞(旧:外国語映画賞)の大舞台で韓国映画初ノミネートの快挙を成し遂げることでしょう。ひょっとするとこの賞を受賞できるのかもしれない。反対に、今回ノミネートできなければそれは完全にアカデミー賞会員の嫌がらせだ。信頼できない賞としてのレッテルを貼られることでしょう。

※無事、第92回アカデミー賞国際映画賞受賞しました。しかも、前代未聞の作品賞、監督賞脚本賞の四冠達成しました。今まで韓国映画を冷遇してきたアメリカを遂に屈服させたのです。ヨカッタヨカッタ!

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