【ポーランド映画祭】『EO』ぼく修羅場ロバ、きみ修羅場ヒト

EO(2022)

監督:イエジー・スコリモフスキ
出演:サンドラ・ドルジマルスカ、イザベル・ユペール、ロレンツォ・ズルゾロ、マテウシュ・コシチュキェヴィチ、サヴェリオ・ファッブリetc

評価:90点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

ポーランド映画祭でイエジー・スコリモフスキ監督最新作『EO』が上映された。本作は第75回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した作品であり、ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』にオマージュを捧げているとのこと。ロバの迫真の演技が印象的な『バルタザールどこへ行く』を意識した作品と聞くとハードルが高くなる。そのまま感傷的な動物映画に仕上げたところでブレッソンの二番煎じになることは明白であろう。しかし、安心してください。「変」な映画を撮るイエジー・スコリモフスキなので、安易にストーリーをなぞっただけ、演出を真似ただけの作品になるはずがなかった。


ジャン=リュック・ゴダール『イメージの本』、大林宣彦『海辺の映画館―キネマの玉手箱』やアレクサンドル・ソクーロフ『フェアリーテイル』など、最近は老人監督が己の才能を爆発させたやりたい放題作品が次々と発表されていく。その系譜にイエジー・スコリモフスキも乗っており、言葉で説明しただけでは、何を言っているんだ?と思うような描写に満ち溢れた作品へと仕上がっていた。一応、その特性上、ディティールまでは語るがネタバレなし記事扱いとする。日本公開は2023年5月5日(金)。何も知らないで観たい方は、ここから先は読まないようお願いします。

『EO』あらすじ

Follows a donkey who encounters on his journeys good and bad people, experiences joy and pain, exploring a vision of modern Europe through his eyes.
訳:ロバは旅の途中で善人や悪人に出会い、喜びや苦しみを経験し、彼の目を通して現代のヨーロッパを探ります。

IMDbより引用

ぼく修羅場ロバ、きみ修羅場ヒト

真っ赤に点滅する空間の中、女とロバが戯れるスペクタクル。点滅により人間の運動と運動との間が視認可能なレベルで意識され、どこか早い運動に思えてくる。これはサイレント映画時代への郷愁だろうか。確かに、動物映画において、人工言語を発さない動物に「物語」を付与するためには「運動」が必要不可欠である。この場合ロバの運動が、映画に意味を与える。その宣言として荒い粒子と点滅による空間が提示されていると考えられる。本作はエンドロールを観ても分かる通り、動物への配慮を意識した作品である。『バルタザールどこへ行く』の時代における、動物への無配慮は許容されにくい。動物にも人権同様のものがある。その状態で凄惨なロバの修羅場をどのように描くのか。それは編集」だとスコリモフスキは語る。映画の中で、ロバのEOは人間による暴力にさらされるが、ロバ目線のショットを挿入することで直接的な危害を回避する。ロバの痛みは画と画を補う観客の脳内にて生み出され、それが物語を推進させる要素の一つとなっているのだ。


さて、本作はイエジー・スコリモフスキがやりたい放題映像で遊んで魅せる作品となっており、目線も人間目線、ロバ目線の他に、神の目線なのだろうか、それにしても奇怪な角度から撮られたショットに満ち溢れている。その予測不能なショットがギャグとしてスパイスになっている。例えば、EOがリンチに遭った次の場面では、真っ赤な画の中でSPOT®と思しき4足歩行ロボットが動き回るショットが数分間に渡って捉えられているのだ。リンチを受けたEOの幽体離脱、つまり精神と肉体が乖離し、精神が肉体を見つめる様子のメタファーなのかと読み解くこともできるが、見つけてきたおもちゃで無邪気に遊んでいるだけのようにも思える。この不意打ちの異様さに思わず笑みが溢れるのだ。遊びのショットがどれもカッコいいので不快感はない。楽しそうに遊んでいる人を見ていると思わず楽しくなってしまうように、イエジー・スコリモフスキが「映画」というおもちゃでハイレベルな遊びをしている姿に魅了されてしまう体験が『EO』にはあるのだ。

では、ただ映画で遊んでいるだけの映画なのだろうか?

それには「否」を唱えたい。この映画には作劇としての鋭い技術が眠っている。修羅場映画の文脈で観るとみえてくる。修羅場映画とは「不幸中の幸い」の宙吊り状態が物語を思わぬ方向へと推進させるものである。不幸が発生し、それに対する反応をする。それが不幸に転じるか幸に転じるかの瀬戸際の手汗握る感覚。基本的には間一髪「幸い」に転じるが、それが新たな不幸を呼び寄せてしまう。現実でもよくあることだが、フィクションの中で描かれることで我々は修羅場を客観視し、現実の痛みを中和させることができる。良き修羅場映画とは、「不幸中の幸い」の宙吊り状態を魅せ続けることで我々の痛みを癒すものだと解釈している。

『EO』の場合、もちろんロバに修羅場はもたらされるわけだが、それと同等に周囲に現れる人々にも修羅場がもたらされる。例えば、サッカーの試合後、クラブで優勝チームがバイブスを挙げている場面がある。EOは勝利を導いた存在としてクラブ内で祭り上げられる。VRの一人称AVのようなショットで代わる代わるロバに接吻する様子が映し出される。嫌気が差したのかEOはクラブを後にすると、その直後に敵チームが殴り込みにくる。接吻地獄という不幸。しかし、そこから脱したことでリンチを免れる。「幸い」が訪れる。しかし、敵チームに発見されて殴られる。不幸と幸いが入り乱れる修羅場がここにある。また、動物を売買する闇家業の現場と思しき場所に連れて行かれる場面では、EOの足蹴りによりヒトは死の淵に立たされる修羅場がもたらされる。修羅場の渦中にいるEOが修羅場をヒトに与える。するとトンネルのような場所が点滅し始める。まるで、ボスキャラを倒して次のステージの扉が開くような演出がなされる。

このようにロバとヒトとの修羅場を巧みに組み合わせる。そして、全ての修羅場をキレイに収める必要はない。宙吊りなのだから、不幸にも幸いにも転じない渦中のままの描写があっても良いと監督は静かに物語る。その例として、怪しいポーランド男にトラックへ招かれた黒人女やイザベル・ユペールのパートがある。通常であれば掘り下げるような場所も、突然打ち切られる形で次の場面へと映る。映画とは不完全でいいのだ。修羅場映画ならなおさらだと語る様に力強さを感じた。

アリストテレスは技術(テクネー)とは詩(ポイエシス)だと語っているが、『EO』はその2022年を代表とする例なのではないだろうか?

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※IMDbより画像引用