『パシフィクション』虚構のような現実のような大海の中で

パシフィクション(2022)
Pacification-Tourment sur les îles

監督:アルベール・セラ
出演:ブノワ・マジメル、パホア・マハガファナウ、マルク・スジーニ、セルジ・ロペス、ルイス・セラー、Montse Triola etc

評価:80点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

カイエ・デュ・シネマベスト2022にて1位に選出され、東京国際映画祭でも話題となったアルベール・セラ新作『パシフィクション』をようやく観ることができた。アルベール・セラ監督といえば「ドン・キホーテ」から主要エピソードを抜いた『騎士の名誉』や全編強烈な性描写で包む『リベルテ』と、映画をファスト人生と定義するならば、カットされた部分を繋げることで虚構の中にリアリティが生まれるのではといった観点を実践している監督だと認識している。ただ、映画は人生において面白い部分を抽出するのだから映画なのであって、それ以外の部分を集めても退屈な映画にしかならないのではと思っている。一応、『リベルテ』では胸部や男性器が映し出される部分がアクセントとして使われているが、その手の描写の作品は数多存在するので結局頭でっかちな監督だと思っている。

しかしながら『パシフィクション』は画のインパクトもあり、抽象的に社会を語る映画としてよくできた作品だと感じた。

『パシフィクション』あらすじ

『ルイ14世の死』(16)で知られるアルベルト・セラの最新作。フランス領ポリネシアの島を舞台にフィルム・ノワールを思わせるスタイルで描かれる人間模様。カンヌ映画祭コンペティションで上映。

第35回東京国際映画祭サイトより引用

虚構のような現実のような大海の中で

ブノワ・マジメル演じるフランス人高等弁務官デ・ロールはタヒチへとやって来る。彼は高圧的に振る舞いながら、島のあらゆる場所へと出入りする。島では、核実験の噂が漂うが、それによるサスペンスは全く起きる兆しがなく、間伸びした時間が紡がれていく。カイエ・デュ・シネマの監督インタビューを読むとプルーストの影響を受けた作品とのこと。「失われた時を求めて」では、人名や場所が頭の中で結びつき、想像力を働かせたり、過去へと誘う役割を持っている。本作ではデ・ロールの彷徨いでもって世界を形成しようとしている。

単に間伸びした時間が160分も続くわけではない。『パシフィクション』最大の特徴は、インスタ映えとでも言えようか、あるいは観光地のお土産屋で販売されているポストカードのような過剰に加工された色彩の中物語が進行していくのである。特に象徴的なのは、海の場面であろう。大波が人々を飲み込もうとする。それをボートに乗ったデ・ロールが追跡する。現実離れしたような空間だが、彼の目には現実のものとして映る。伝聞ベースで漂う、不穏さが一気に眼前に現れる状況を提示する場面がある。まさしく虚構の大海の中で、現実が現出するタイトルそのものの場面と言えよう。

さて、本作では奇妙な描写が所狭しと並べられる。観光地なのに、他の観光客の気配を感じさせないタヒチという空間。音楽は奏でられ、鳥も活気溢れる動きを見せているのだが、どこか祭の熱気が感じない空間は不気味であろう。そんな空間の中で、ジワジワと時が融解していく。この異様な質感は、コロナ禍で我々が知ってしまった現実の終末世界の手触りに近いだろう。つまり、「終末は突然訪れ、全てを破壊するのではなく、ニュース等の伝聞を通じてジワジワ破壊されていく。増幅される不安とは別に何気ない時は進む。」ということだ。

ヴァーチャル空間を使えば他者とも繋がれるし、美しい空間に身を委ねることもできる。コロナ禍でも東京オリンピックが行わるような祭はあった。人々の中には、凄惨な状況下で煌びやかなものに身を委ねようとする者もいるだろう、まるで本作のクラブにいる人のように。しかし、ニュースとして不穏なものが耳に入る。ジワジワと心に闇が広がっていく。平静を保とうとしても、どこか毒されてしまう。が、すぐに死ぬことはない。虚構のような現実の浮遊感の中生かされている感覚を『パシフィクション』は見事に表現してみせたと言えよう。ある意味、新しいゾンビ像の提案として観ることもできそうだ。

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※IMDbより画像引用