【ネタバレ考察】『ドライブ・マイ・カー』5つのポイントから見る濱口竜介監督の深淵なる世界

ドライブ・マイ・カー(2021)
DRIVE MY CAR

監督:濱口竜介
出演:西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいかetc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞(日本映画初と報道されがちですが、厳密にはアレクサンドル・ソクーロフ『モレク神』がいるので日本初ではない)した濱口竜介監督。昨年の『スパイの妻 劇場版』で第77回ヴェネチア国際映画祭で黒沢清が監督賞(脚本参加)を受賞したのを筆頭に、『偶然と想像』で第71回ベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、そしてカンヌを制覇。三大映画祭を実質ストレート制覇し、大暴れしています。先日、『ドライブ・マイ・カー』の試写会にフォロワーさんからお誘いいただきお邪魔しました。

社会派映画でない原作ものはカンヌ国際映画祭ではかなり不利となる。イ・チャンドンが村上春樹の「納屋を焼く」を映画化した『バーニング 劇場版』が批評家評判高かったにもかかわらず無冠に終わった雪辱を果たすように脚本賞を仕留めた訳ですが、これがトンデモナイ傑作でありました。

試写会に臨むにあたって、原作が収録されている短編集「女のいない男たち」と関連作品であるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を読了。後者はモスフィルムのyoutubeチャンネルで配信されているアンドレイ・コンチャロフスキーが映画化した作品を観た。劇中に登場する「ゴドーを待ちながら」はMUBIで配信されている映画版『The Churning of Kalki』を観て万全の体制で観ました。

これが驚き、驚き、驚きの連続であり、原作の解体/再構築が凄まじく、これぞ映画の翻訳だと思いました。

本記事はネタバレありで、本作の深淵を覗いていこうと思います。

ネタバレ記事なので、映画観賞後に読むこと強くおすすめします。

※原作感想:【カンヌ国際映画祭特集】「ドライブ・マイ・カー(原作)」人は誰しも演技する
【ネタバレなし】『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介の新バベルの塔

『ドライブ・マイ・カー』あらすじ

村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を、「偶然と想像」でベネチア国際映画祭銀熊賞を受賞した濱口竜介監督・脚本により映画化。舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。主人公・家福を西島秀俊、ヒロインのみさきを三浦透子、物語の鍵を握る俳優・高槻を岡田将生、家福の亡き妻・音を霧島れいかがそれぞれ演じる。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、日本映画では初となる脚本賞を受賞。ほか、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の3つの独立賞も受賞した。

映画.comより引用

ポイント1:ワーニャ伯父さんの脱構築

まず、『ドライブ・マイ・カー』を観る上で欠かせない要素としてチェーホフの戯曲である「ワーニャ伯父さん」の存在があります。正直、村上春樹の原作よりも「ワーニャ伯父さん」の巧みな組み込み方が重要となってきています。

「ワーニャ伯父さん」はどんな話かというと、かつては名教授だったセレブリャコフが落ちぶれて田舎で隠居暮らしをするのだが、彼の為に身を粉にして働いてきたワーニャはセレブリャコフという信仰を失い毒づいている。そんな闇堕ちしたワーニャと対になるように意識高い医師アーストロフが配置され、二人はセレブリャコフの若き後妻エレーナに恋をする。セレブリャコフが自分のことしか考えず、ワーニャの土地を売り払おうとしたのにブチ切れて殺そうとするが未遂に終わり、失意のどん底にいる彼を、同じく搾取されて暮らすソフィアに慰められ、「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…」と語りかけて物語は終わる。

この人間関係が複雑に、『ドライブ・マイ・カー』の人間関係に対応していく。まるでジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」のように。

西島秀俊演じる家福悠介は、「ワーニャ伯父さん」で主人公ワーニャを演じている。そんな彼の前にファンですと、高槻(岡田将生)が現れる。なんでその演劇に魅せられたかを上手く言語化できない青さこそあれども熱意の眼差しを彼は悠介に向ける。だが、その後彼は妻の死により、公演中にセリフが出てこなくなりワーニャを演じなくなってしまう。

2年後、彼は演劇祭での公演の依頼を受ける。そのオーディションに現れたのは高槻だった。彼は、同じくオーディションに来た女イ・ユナ(パク・ユリム)と攻撃的な演技を魅せ悠介を狼狽させる。彼はアーストロフ役を演じたがっていた。だが、悠介は高槻をワーニャ役に選出する。配役を選ぶ場面でホワイトボードが映し出されるが、ここで構成される画はワーニャはもちろん、セレブリャコフは誰が演じるか分からなくなっている。

このことから、これは演劇として華型であるワーニャを演じられなくなって時が経ってしまった悠介は、セレブリャコフのように自分勝手な老人になってしまったと考えることができる。そして高槻は、好青年なアーストロフからワーニャへと引きずり込まれている関係と言える。

また、ワーニャに少ない希望を与える役として重要なソーニャはみさき(三浦透子)と言える。抑圧された環境に身を投じ、最後の最後で感情を掠れたように吐露するソーニャの特性は、災害で崩れ、雪山に埋もれた地を前にする「みさき」に引き継がれ、それが悠介に過去と折り合いをつけるトリガーとなっているのだ。

ポイント2:村上春樹ワールドの巧みな翻訳

本作は村上春樹「ドライブ・マイ・カー」の映画化であるが、映画の始まりは肉体を交える度に物語る女を描いた「シェヘラザード」である。この引用に私はしびれた。「ドライブ・マイ・カー」は幾ら戦略的に描かれているとはいえ、2013年時点で「男らしさ/女らしさ」を語る手法に古臭さを感じた。村上春樹の女とはこうあるべき論が批判的に描かれているように見えて、彼の本心なんじゃないかと思うところがあった。

映画では、そういった原作にある「男らしさ/女らしさ」の話を巧みに解釈し、2020年代に相応しい普遍的な物語へと昇華している。

その一番成功している演出こそが「シェヘラザード」からの引用だ。シェヘラザードといえば、「千夜一夜物語」において暴君シャフリヤールを鎮める為に毎晩興味深い話をする人だ。悠介は、街中でド派手に目立つ真っ赤なサーブ900を運転していたり、他者と接する時はスカして話したりする。ナルシストである。冒頭、裸になりながらリラックスして妻・音(霧島れいか)の話を聞く。その直後のシーンでは、悠介が車のハンドルを握りながら会話の主導権を握っている。強い力を持っている。

だが、そんな彼がハンドルをみさきに奪われ、車の中という内なる世界に侵入してきた高槻から、空き巣話の続きを聞かされることで、シェヘラザードこと音が主導権を握っていたことが明確に突きつけられる。この場面には力が入っており、今までチャラ男の印象が強かった高槻が真顔で、演技なのかどうか分からない語りをする。この禍々しい怖さが、もはやみんなの意見を聞いているようで誰の声も受け付けなくなってしまった悠介の心の壁を破っていく説得力がある。

試写会では、MCの人が岡田将生が妻と不倫をしていた人だとは言わないでくださいと語っていたが、そもそも本作はミステリーではないのでそこはあまり重要ではない。『バーニング 劇場版』で主人公が対峙する男が本当に納屋を焼いたのかが重要ではないことと一緒だ。なのでミステリーとして観ると、開幕早々岡田将生が犯人なのは分かってしまう。

重要なのは、いつ分かるか?どのようにしてネタバラシをするかだ。悠介が知らない空き巣話の続きで、女が空き巣犯を殺す内容を淡々と語る高槻を通じて、悠介は内なる暴力の存在に気づく。今まで薄々気づいていたが、直視しようとしていなかった真実に目を向けるのです。そして、妻がいない今、もう前に進むしかないことを彼は気づき始める。「ワーニャ伯父さん」を積極的に映画に取り込んでいるので、戯曲を知っている観客は「犯人は岡田将生演じる高槻で、ワーニャのように老害になってしまった悠介を殺そうとするのでは?」と思うだろう。それを「シェヘラザード」を引用し、力関係の逆転に気づかされる物語へと横滑りさせていく。このミスリードの生み出し方に感動を覚えた。

カンヌ国際映画祭の脚本賞は、毎回なんで脚本賞を獲れたのか分からないことが多いのですが、他のコンペ作品観ていないのでなんともいえないけれども『ドライブ・マイ・カー』が脚本賞獲ったのは納得でした。

ポイント3:多言語演劇について

濱口竜介監督は、多言語演劇に興味があるとのことで、本作で演出される「ワーニャ伯父さん」は日本語、韓国語、さらには手話といった言語が使用されている。監督は、多言語にすることによって言葉以外のチャンネルが生まれることを期待したと語っている。そのチャンネルは観客サイドにも生み出され、独特な緊迫感が生まれている。

例えば、高槻がオーディションで獰猛なアーストロフを魅せる場面。役者は脚本があるから詳しい内容を知っている。でも観客はその中身を知らない。だから悠介以上に、嘘か本当かが分からなくなる。これは村上春樹の原作で、自分は意識的/無意識的に演じている理論を翻訳したもので、役者は当然映画の中で演技をしているのだが、その演技の濃淡が観る者の心をざわつかせることに成功していると言える。

映画のクライマックスでは「ワーニャ伯父さん」の公演が映し出される。理詰めで観ていくと確かにクライマックスは演劇しか選択肢はない。そこで、ワーニャ役を急遽演じることとなった悠介が、手話で演技をするソーニャとボディランゲージだけで会話するシーンをじっくり長回しで魅せていく。

他者の心を無意識に受け入れてなかった悠介/受け入れるようになった悠介を映画は肉体の交わりで始まり肉体の交わりで終わることで表現している。

ポイント4:四宮秀俊の撮影について

本作は『きみの鳥はうたえる』、『宮本から君へ』、『お嬢ちゃん』で抜群なカメラワークを魅せた四宮秀俊の官能的な撮影が素晴らしい。今年ぶっちぎりの撮影賞ものだ。

なんたって、サーブ900を撮るだけでも眩しい陽光の中で舐めるように強調される美しさがあって、これは飛行機にも適用される。最近の日本映画でここまで飛行機をダイナミックに捉えた映画があるのかと思ってしまう。

また、谷口吉生が手掛けた広島の環境局中工場での場面がこれまた良い。ドライに動く機械の連動、それに反してガラスの反射が美しく、悠介とみさきが心の内を明かせそうな環境となっている。そして夕日が、ほんのり照らす中、階段でたばこを二人は吸う。背の低いみさきが階段の上から悠介に話す場面となるのだが、画は高低差を強調することなく、みさきと悠介の目線が一緒になるようにコントロールしている。対等に心を通わす場面というのを強調する為に繊細な階段との関係性を構築しているのだ。

また、みさきの記憶の地へ向かう場面。車のヘッドライトだけで照らされた道は暗闇へと吸い込まれていき、U字カーブとなっているので再び車が顕となり、カメラが少し右にパンすると、街の明かりが恍惚と輝く。という凄まじい長回しは、ラオール・ウォルシュ『ハイ・シエラ』におけるU字カーブを長回しで撮る撮影の応用例として輝くものがあります。 

ポイント5:オリヴィエ・アサイヤス『アクトレス 女たちの舞台』との比較

本作はオリヴィエ・アサイヤス『アクトレス 女たちの舞台』と骨格がよく似ています。ジュリエット・ビノシュ演じる大物の役者マリア。彼女のもとへ出世作のリメイクの話が舞い込んでくる。彼女の演じる役は、若きヒロイン役ではなく、彼女に振り回される中年上司役だったという内容だ。そしてヒロイン役にはハリウッドの新鋭ジョアン(クロエ・グレース・モレッツ)が抜擢されるのだが、スキャンダラスなオーラを放つ彼女に振り回され、自分の役者人生を見直すきっかけとなる。

かつて、チヤホヤされた者が老年に差し掛かり、過去にしがみつく。それをかつての自分の分身のような存在がジッと見つめる。演劇が「演技」を多層的にする舞台装置となり、人間は誰しもがなりたい姿を演じており、それが年老いていくと少しメッキが剥がれていく。自分の醜態が見えてしまうのではという不安と、かつてキラキラしていた自分への羨望との間でもがき苦しみながら、新しい自分としての振る舞いを見出していく。

内なる自分の吐露の場として、舞台を飛び出し、自然に身を当時感情を吐露しあう場面がある点でも共通している。

しかしながら、『アクトレス 女たちの舞台』の場合、ヨハン・パッヘルベルの「カノン」に頼ってしまったことで陳腐さが出てしまったことと、コンテンポラリー演劇をただ映しているだけに留まってしまったところが玉に瑕であった。

一方、『ドライブ・マイ・カー』は分解された「ワーニャ伯父さん」が終盤で修練していく。本作が、バラバラになった言葉の世界の中で役者たちが、表情、言葉遣いから意味を解釈していく物語であった。故に、劇中も戯曲のセリフがバラバラに紡がれていく。それが最後に集まることに、この映画におけるコミュニケーションのテーマが強まっていくのだ。

 

最後に…

本作が社会派映画ばかり評価されがちなカンヌ国際映画祭で評価されたのは、ジェンダーや国籍を超えて、人間の本質的なコミュニケーションのあり方に関して耽美な撮影と、鋭く斬新な脚本で描いたこと結果だろう。

濱口竜介監督は、毎回人間心理の静かな軋轢を描きながらも、必ず映画的魅力ある演出を取り入れているから面白いと思う。今回の場合、予想できそうで、意外な場所で裏切ってくる脚本。そして、多言語演劇の面白さ。それは表面的なものではなく、バラバラになった「ワーニャ伯父さん」が段々と脱構築されて、解体された村上春樹の原作と共鳴し、濱口竜介の世界へと広がっていく深みある面白さである。そこに四宮秀俊の耽美な撮影、石橋英子の心に残る音楽がアッセンブルする。まさしく、2021年最強の日本映画でありました。

おまけ1:カイエ・デュ・シネマの評判と西島秀俊インタビュー

カイエ・デュ・シネマ2021年7~8月号では、レオス・カラックス『Annette』とポール・ヴァーホーヴェン『Benedetta』と並び、星評は★3~4で占められていました。前2作品では低評価をつけていた人がいたのに対し、『ドライブ・マイ・カー』は低評価0人だったので、恐らく年間ベストは間違いないでしょう。

また、レビューも凝ったレトリックを使用しており、

Le mirage de toute communication consiste ainsi à nous faire croire qu’elle peut être instantanée, alors que tout en elle est médiatisé,
traduit, interprété, triangularisé, différé, et que tout affect doit en passer par le filtre du temps pour arriver à bon port. Le théâtre, qui selon Rivette posait au cinéma la seule question. qui vaille, joue ici le rôle d’échangeur:c’est mots et les sentiments transitent pour changer de direction e enfin atteindre leur cible.
訳:全てのコミュニケーションによる蜃気楼は瞬時にそれができるだろうと思わせることで成立しているが、その中の全てのものは、媒介され、処理され、解釈され、三角化され、異化され、すべての影響は、その目的地に到達するために時間のフィルターを通過しなければなりません。ジャック・リヴェットが価値ある唯一の問いとして映画に置く劇場はここではインターチェンジの役割を果たします。言葉や感情が通り過ぎ、向きを変え、最終的に目的地に辿り着くのです。

と評していました。いつも通り、一文がとても長く、読み辛いのですが面白い表現されていますね。

また、西島秀俊のインタビューで「濱口竜介監督はブレッソン映画のような演出をしていますね」と訊かれた際に、彼が正面からブレッソンについて語っているところに感動しました。

J’avais bien sûr Notes sur le cinématographe en tête, mais la méthode d’Hamaguchi est davantage renoirienne.
訳:もちろん、「シネマトグラフ覚書: 映画監督のノートNotes sur le cinématographe(ロベール・ブレッソンの映画本)」は念頭にありますが、濱口さんの手法はそれ以上にルノワール的です。

 

Je lisais d’abord le scrin avec mes partenaires «à l’italienne », d’un ton neutre, puis j’augmentais ou diminuais l’intensité de ma voix sans montrer la moindre émotion. Hamaguchi dit qu’il n’y a rien de mieux que d’écouter quelqu’un qui lit, et j’ai pu ainsi profiter de la qualité du scénario en écoutant la voix de mes partenaires.
訳:僕ははじめにパートナーと一緒に中立的な「イタリア式」で台本を読み、その後、感情を出さないように声の強度を上げたり下げたりしました。濱口さんは「人が読んでいるのを聞くのに勝るものはない」とおっしゃっておりましたが、僕もパートナーの声を聞くことで、台本の良さを堪能することができました。

 

Afin d’être spontané dans toutes les scènes, Hamaguchi préparait une dizaine de questions pour chaque rôle et demandait au comédien d’y réfléchir. Je n’avais jamais expérimenté une telle méthode, qui, il est vrai, s’approche de l’acteur comme «modèle» dont parlait Bresson.
訳:すべてのシーンで自発的に行動するために、濱口は各役に10個ほどの質問を用意し、役者に考えてもらった。私はこのような方法を経験したことがありませんでした。確かに、ブレッソンが言った「モデルとしての俳優」に近いものがあります。

西島秀俊は、ずっと禍々しいオーラの出せるイケメン俳優と思っていたのですが、ここまでシネフィル的観点から的確にカイエの質問に答えていると土下座したくなりました。他にも濱口竜介の他の作品についてや村上春樹の原作について語っているので、フランス語ができるようであればCahiers Du Cinema [FR] No. 778 2021″の購入をオススメします。

■レオス・カラックス『Annette』
■ポール・ヴァーホーヴェン『Benedetta』
■モーリス・ピアラ論(『シックス・センス』や『X-ファイル』を好んだとの記述があり驚かされる)
■マイケル・スノウ『波長』話
■センベーヌ・ウスマン『MANDABI』評
■梶芽衣子インタビュー
etc

豪華ラインナップとなっています。

おまけ2:濱口竜介の2010年代ベスト映画(カイエ・デュ・シネマより引用)

【順不同】

アンジェリカの微笑み(マノエル・ド・オリヴェイラ、2010)
ソーシャル・ネットワーク(デヴィッド・フィンチャー、2010)
トスカーナの贋作(アッバス・キアロスタミ、2010)
ビオラ(マティアス・ピニェイロ、2012)
終の信託(周防正行、2012)
黒衣の刺客 (ホウ・シャオシェン、2015)
ハドソン川の奇跡(クリント・イーストウッド、2016)
イメージの本(ジャン=リュック・ゴダール、2018)
マーウェン(ロバート・ゼメキス、2018)
パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ、2019)

映画監督の2010年代ベスト10※カイエ・デュ・シネマより
※試写会で画像提供いただいたので、それを引用使用しています

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