【カンヌ国際映画祭特集】「ドライブ・マイ・カー(原作)」人は誰しも演技する

ドライブ・マイ・カー(2013)
村上春樹著

第74回カンヌ国際映画祭コンペティションに濱口竜介監督作『ドライブ・マイ・カー』が選出された。つい先日、第71回ベルリン国際映画祭で『偶然と想像』が銀熊賞(審査員賞)を受賞したばかりなのにこの勢い、イケイケドンドンである。今回は村上春樹の短編小説『ドライブ・マイ・カー』の映画化だそう。誰かが言っていたが、映画化は短編映画の方が向いている。村上春樹の短編は行間が広く、解釈を読者に委ねていたりもするので映画化に最適だろう。近年だと、イ・チャンドンが『納屋を焼く』を映画化した『バーニング 劇場版』の例がある。富める者と貧しき者の間にある埋められない断絶というものを、これまた行間広めにじっくりと煮込んだ傑作であった。

さて、スパイク・リーやジェシカ・ハウスナー、クレベール・メンドンサ・フィリオが到底パルム・ドールや審査員賞に日本的会話劇を選ぶとは思えないのですが、応援したいので短編集「女のいない男たち」に掲載されている原作を読んでみました。

尚、ネタバレ考察となります。

「ドライブ・マイ・カー」あらすじ

舞台作家・家福を苛み続ける亡き妻の記憶。彼女はなぜあの男と関係したのかを追う。

※小説背表紙より引用

優男の内面にある女性差別

本作を読んでいる時、「いつ書かれた作品だ?」と背表紙を見て絶望した。そこには「2013年」と書いてあったからだ。2010年代はスマートフォンとSNSの台頭で老若男女世界中の情報が洪水のように我々を呑み込んでいった。これにより、世界中の社会問題も明るみに出て、抑圧される女性像も世界中に伝播し、少しずつ「男らしさ」「女らしさ」の呪縛から解放する動きが活発となっていった。村上春樹は「海辺のカフカ」で、図書館のトイレを通じて公共とジェンダーの関係について論じていた。「ドライブ・マイ・カー 」も恐らくは、意図的に女性蔑視を描いているのだと思う。だが、その癖が強すぎるもとい少し古くて拒絶反応が出てしまった。

冒頭、主人公である舞台作家・家福は女性ドライバーに着目し、乱暴すぎる運転をする女性と慎重すぎる運転をする女性について考察する。そして、後に女性ドライバーみさきと対峙した際にマニュアル車は運転できるのか?から始まり、根ほり葉ほり彼女の運転をリトマス紙にかける。彼は美人な運転手を求めていない。自分はジェンダーを気にしない男だと強調するように、修理工場の経営者に「そいつはしっかりしています。女性にしてはとかそういうんじゃなくて、ただひたすらうまいんです。」と言わせる。

この時点で、本作の中心にあるのは「自分は人として見る」と言っているが、それは内面にある女性蔑視を抑圧していることといえる。そして、演劇という要素から「演技」を抽出することで、人間は社会に順応するように演技する存在であると考察しているのです。強烈な男らしさ、女らしさの考察に、ひょっとすると女性の読者は嫌悪感を抱くのかもしれない。私は男ではあるが、家福の内面が段々と浮き彫りになっていき、「女の人が何を考えているのか、僕らにそっくりわかるなんてことはまずないんじゃないでしょうか。」と出てしまう場面で辛くなりました。ひょっとすると、自分の中に無意識にある男性と女性の差異意識を刺されたからそう感じたのかもしれない。

とはいっても、本作は嫌いというわけではない。面白いギミックを通じて、人間心理を描いている。そこに新鮮さを感じる。女性が運転するイメージに対して差異を感じている家福が、緑内障と飲酒運転による事故で、女性に運転してもらう。車とは、自分の肉体を少し外部化した存在だ。自分が直接運転する。自分の肉体と接触し、コントロールすることで肉体を超えた速度での移動が可能となる。しかし、運転してもらうことはその肉体の接触からも離れることだ。さらに自分の肉体が外部化される。それも異性の手によって。この車と人間の関係性から、肉体の外部化が考察されていく。家福は亡き妻との記憶を反芻する。妻との間に授かった赤子は死んでしまう。彼女はもう子どもを作りたくないと言い、4人の男と肉体関係を持つようになる。家福は妻が不倫をしているのを知っておきながら、それが悟られないように演技をしていた。しかも、彼が不倫相手の一人である高槻と友だちになったのは、彼女が不倫をしていたからだと語るのだ。高槻は家福のドッペルゲンガー的存在である。家福の妻が主役を張れるタイプの俳優であるのに対して、彼は一応の性格俳優だ。そして高槻は二枚目俳優である。家福は、他の男が妻と性行為しているのをまるで自分の肉体が他者に憑依して行なっているように見ている。そんな彼だからこそ、自分に最も近い存在である高槻に惹かれ、自分の鏡像として議論を交わすのだ。外部化された肉体が少しずつ自分の近くに戻っていく感触は、イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』に近い。

そして、本作ではチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」が重要な要素となっている。「ワーニャ伯父さん」は主人公ワーニャがかつて尊敬して自分の道として存在していたセレブリャコフ教授が年老いて、老害な存在になったと失望し、復讐しようとする話。

家福がいつしか妻と寝ていた男に仕返ししようと考えるところに対応しており、自分の分身である存在を通じて自分に失望し、復讐を企てる。自殺はできない。だから自分のドッペルゲンガーに仕返しをするという点で本作の骨格が「ワーニャ伯父さん」であると語っているのだ。「納屋を焼く」でフォークナー「Barn Burning」を利用している時よりか分かりやすく、露骨な引用ではあるが、現代版「ワーニャ伯父さん」のアイデアとして秀逸だなと感じました。

久しぶりに書評書いたので、少々とっ散らかっているのですが、濱口竜介版「ドライブ・マイ・カー 」が楽しみになってきました。上映時間が3時間ぐらいあり、尚且つ彼が得意とする演劇系の話なのでひょっとしたら《シン親密さ》としてパワーアップした濱口竜介を観られるのかもしれません。

※映画.comより画像引用

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