【ネタバレ考察】『納屋を焼く』NHKドラマ版、『バーニング 劇場版』と併せて観て謎が分かる!

『納屋を焼く』NHKドラマ版を観てみた

昨日の夜10時、NHKでイ・チャンドン監督の『バーニング』のNHK編集バージョンが放送された。本作は、NHKが『ペパーミント・キャンディ』『オアシス』の鬼才イ・チャンドンにアプローチを仕掛けて、村上春樹の『納屋を焼く』の映画化を実現させた代物だ。カンヌ国際映画祭に出品された際こそ、公式賞は無冠に終わってしまいましたが、批評家からは絶賛されて、アカデミー賞外国語映画賞に韓国映画として初めてのノミネートが期待されている作品である。あのバラク・オバマ前米国大統領の2018年お気に入りの映画

にも選出されている。

今回のNHK放送バージョンは、148分ある作品を90分程度に編集したものである。ブンブンは、釜山国際映画祭で一足早く映画版を鑑賞しているので、今日は両バージョンの比較と、2回目だからこそ分かる謎の分析をしていこうと思います。後半から、『バーニング 劇場版』のネタバレに繋がる話となってきます。『バーニング 劇場版』を観ていない方は、途中で本記事を読むのをやめることオススメします。

『バーニング 劇場版』は2019/2/1よりTOHOシネマズ シャンテ他にて公開です。

あらすじなどは過去記事:《【釜山国際映画祭・ネタバレなし】『バーニング劇場版』村上春樹『納屋を焼く』のその先…》をお読みください。

『納屋を焼く』NHK放送版では何がカットされたのか?

まず、ドラマ版を観た人が誰しも思うのは、映画版から何をカットしたのか?という疑問だ。

実はNHKは、見事な分割を施している。もちろん、NHK総合テレビでの放送なので、ジョンスとヘミの激しい濡れ場はカットされている。ただ、本バージョンと映画版最大の違いは、原作のエンディングの先を描くか否かにあります。実は、イ・チャンドン版『納屋を焼く』の本編は、90分後から始まるのです。前半90分は、じっくり、じっくり忠実に原作をなぞっています。村上春樹『納屋を焼く』論でよく提唱されるフォークナーの”Barn Burning”も記号として使い、徹底的に村上春樹リスペクトの眼差しを送るのだ。

だから、ドラマ版を観た人の多くが、「結局何が言いたかったの?」と疑問に思うことでしょう。なんたって、原作も謎を撒き散らすだけ撒き散らして終わるのだから。映画版で原作にない要素として使われる、「家にかかってくる無言電話」も「空想上の猫」もただの記号としてしか置かれておらず、観客はイ・チャンドンから投げつけられた無数のカケラをどう消化していいのか分からず終わってしまう。ムーディーな音楽、そしてチョン・ジョンソの美しいパントマイムが脳裏に木霊して、謎が謎を呼ぶ作りとなっている。

ただ、ドラマ版を2度観ると、分かる部分もあります。次では、「ユ・アインの表情から読み取れるもの」と「無言電話の正体」について考察していきます。

1.ユ・アインの表情から読み取れるもの

元々、テーマすら見えてこない。無の極致である原作をイ・チャンドン監督は独自の解釈で再構築している。ただ、その解釈は非常に見えづらいものとなっている。その得体の知れないテーマを掴むには、ユ・アイン演じるジョンスの表情に着目する必要がある。ジョンスは大学を卒業後、地方で細々と暮らしている。小説家になる夢を抱きながら。そして、定期的に都会にやってくる。よくジョンスを観察すると、ジョンスが都会にやってくる理由がヘミのこと以外ほとんどないことに気づくでしょう。別に仕事できている訳でもないのに、遠方からはるばるやって来て街を彷徨い、地方へ帰っていく。そこには、ジョンスの都会への憧れが見えてきます。

そして、ヘミと出会いジョンスは恋に堕ちる。そこでユ・アインが魅せる表情は、童貞青年の愛情への渇望だ。ヘミが劇中で言及する《Little Hunger》を体現している。

そんな中、ベンという謎のリッチマンが現れ、ジョンスの目の前でヘミとイチャつくのだ。平静を装うように感情を抑えているのだが、コップから溢れんばかりの渇望がジョンスの表情から見え隠れしてくる。

そう考えると、この作品のテーマが見えてくる。格差によって生じる嫉妬を描いているのだ。貧しく、未来の見えぬ男の希望の光であった女性。それすらも富める者に奪われてしまう。そしてフォークナーを読むほど博識ではあるのだが、貧富の格差によって、同じくフォークナーを読むベンの方へと女は流れていく。そして、自分の女であるヘミが消えてしまったことを軽く扱うベンに苛立ちと絶望を感じていく。それが、ジョンスが見る幻の業火に包まれる温室に反映される仕組みとなっている。

2.家にかかってくる無言電話

本作が軸としてもっている、田舎者の羨望、貧しき者の嫉妬、富める者の無意識たる搾取という要素を強調するために、イ・チャンドンは原作にはないギミックを沢山忍ばせている。例えば、ジョンスの家で不自然に流れるドナルド・トランプのニュース。これは、ドナルド・トランプが多様性を否定して、移民を排除したり、自分の敵を政界から追放したりすることから関連して、階級の断絶を強調しているように見えます。

また、劇中家にかかってくる電話のシーンは、ジョンスの羨望を象徴する場面となっている。ジョンスは小説家を目指していると言ってはいるものの、実際には裁判のまとめを文書にまとめているぐらいで、文章を描こうとしても1文字も書けない人物だ。有名になりたい、成功したいという気持ちが彼を都会に向かわせているのだが、その羨望を強調するために電話が使われる。陰日向で慎ましく生きる者からすると、電話がかかってくるだけで一大イベントだ。もしかしたら、文学賞にノミネートされたかもしれない、本の出版が決まったかもしれないといったワクワク感が着信にはある。しかしながら、実際には無言だ。彼に吉報の何もない。虚無にすぎない。その絶望を表現していると考えることができます。

また、この作品では沢山電話を使ったシーンが出てくるが、そのどれもが《不吉なイベント》を予感させるものとなっている。ヘミがアフリカから帰って来る際の電話は、爆発事件に巻き込まれたという不安を募らせる内容である。また、ヘミがジョンスの家に遊びに来る場面での電話。ヘミからの着信という期待を持たせておいてベンもきてしまうことが分かる。自分の家に人を招くことは、自分の正体を覗かれること。貧しく、何も取り柄がない自分をベンに覗かれてしまうことの嫌悪がジョンスのフラストレーションを増幅させていく。さらに、ヘミが消滅する直前に掛かってきた電話では、彼女の叫びが聞こえる。得体の知れないモヤモヤが霧のように包んでいきます。

そして、ドラマ版では、ジョンスが《Little Hunger》から《Great Hunger》になることを思わせて終わる。次のページからは、劇場版で描かれるジョンスの《Great Hunger》な側面について語っていきます。

劇場版の結末に触れていますので閲覧注意です。

→NEXT:『バーニング 劇場版』との比較

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