オデュッセイア(2026)
The Odyssey
監督:クリストファー・ノーラン
出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロンetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
「クリストファー・ノーランの次回作はホメロス《オデュッセイア》」
このニュースを知った時、一抹の不安が脳裏を掠めた。ホメロスの《オデュッセイア》といえば、トロイア戦争を終えたイタケの王オデュッセウスが故郷を目指すも神々の怒りを買ってしまったことから前途多難な旅と化し、10年近い歳月をかけて凱旋する物語である。
数千年前の物語であるにもかかわらずいまだに語り継がれ、ゲームや小説、映画における物語のフレームワークとして換骨奪胎されている。映画の世界では、1911年にジュゼッペ・デ・リグオロが制作した『L’Odissea』が現在観られる中で最古の作品だとされている。カーク・ダグラス主演の『ユリシーズ』やトロイの木馬のエピソードに絞った『トロイ』あたりが日本では知られているだろう。近年では、日本でもリメイクされた『おみおくりの作法』のウベルト・パゾリーニが後半におけるオデュッセイアとアンティノオスとの決闘にフォーカスを当てた『The Return』を制作している。
とはいえ「オデュッセイア」はあまりにも一般化されすぎているため、鬼才は位相をズラして描く傾向がある。ジャン=リュック・ゴダールが『軽蔑』にて停滞する映画業界とフリッツ・ラングのキャリアをまるでジェイムズ・ジョイスが1日のダブリンに重ねたがごとく「オデュッセイア」を引用したように。はたまた、テオ・アンゲロプロスが『ユリシーズの瞳』にて混迷するボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で揺れるバルカン半島に置き換えたように。
今回、史劇を作ったことのないクリストファー・ノーランが制作するだけに、現代の《オデュッセイア》にするのかなと思っていたらストレートに映画化すると耳にし驚いたのであった。
だがこの話を聞いた際に、「いまさら何故?」「クリストファー・ノーランが映画化する意味とは?」「予告編からは期待できないな」と考えてしまった。元々、史劇が苦手だったことと「オデュッセイア」自体あまり好きではなかったからだ。
先日、グランドシネマサンシャイン 池袋で行われたマスコミ試写で一足早く観てきた。正直、試写で観たかつ座席がリクライニングつき特等席のr-13と快適な状況で観た環境補正もあるのだが素晴らしい映画であった。
また、クリストファー・ノーランが撮る意義はもちろん、本作が北米の映画市場を席巻したほか、ノーラン監督作市場最大のヒット作となった意味もわかった。
9/11(金)の日本公開に併せ本作の魅力について語っていく。
『オデュッセイア』あらすじ
西洋文学の原点とされる古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」を、「オッペンハイマー」「インターステラー」のクリストファー・ノーラン監督が映画化した超大作。ノーランが20年越しの念願として、長編映画として史上初となる全編IMAXフィルムカメラでの撮影を敢行し、トロイア戦争後の英雄オデュッセウスによる10年におよぶ帰還の旅を描く。
トロイア戦争を終えたイタケの王オデュッセウスは、妻と息子が待つ故郷への帰還を目指す。しかし神々の怒りを買った彼の前には、一つ目の巨人や魔女、荒れ狂う海の怪物といった幾多の試練が立ちはだかる。一方、王の不在が続く故郷では、王妃ペネロペに求婚者アンティノオスの影が忍び寄り、まだ見ぬ父を思う息子テレマコスも窮地に追い込まれていた。愛する家族のもとへ帰り着くため、オデュッセウスは過酷な運命に立ち向かっていく。
オデュッセウスと妻ペネロペを「インターステラー」にも出演したマット・デイモンとアン・ハサウェイがそれぞれ演じ、息子テレマコスをノーラン作品初参加のトム・ホランド、求婚者アンティノオスを「TENET テネット」のロバート・パティンソンが演じた。そのほか女神アテナ役のゼンデイヤをはじめ、ルピタ・ニョンゴ、シャーリーズ・セロンら豪華キャストが顔をそろえた。撮影は「オッペンハイマー」のホイテ・バン・ホイテマ、音楽はルドウィグ・ゴランソン。
王道のアメリカ映画に仕上げる職人技
本作は、予習しなくても十分楽しめる冒険活劇ではあるものの可能な限り原作を読んでおくことをオススメする。後述するが、本作はクリストファー・ノーランの脚本術が冴えわたっているからである。
ただ、今回予習で使用した岩波文庫・松平千秋翻訳版は、確かに物語を伝えるのに特化し原語の韻律をある程度崩しているかつ各章にあらすじがついているとはいえ読み辛く半年近くかけて読破した。もし時間がないのであれば、まんがで読破か先日発売された松村一男「『オデュッセイア』入門」に触れておくと良いだろう。特に後者は、簡潔に各章の解説がされているほか、なぜ本作が不朽の名作なのか、ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」など類似作品がどのように本作の要素を引用しているのかといったことを学べる。2時間ほどで読めるので副読本としてオススメである。
せっかくなので、当記事でも簡単にホメロス「オデュッセイア」について語っていく。
本作はホメロスによって作られた文学作品でありトロイア戦争を描いた「イリアス」の続編的作品である。文学作品といえば、紙に書かれた物語を想像するかもしれないが、「イリアス」「オデュッセイア」は吟遊詩人が各地を練り歩き即興的に韻律を踏みながら語る口承文学といった形式を取っている。つまり小説として紙にまとめられたのは後世になってからなのだ。その期間、物語が忘れ去られることなく語り継がれ、インド叙事詩「マハーバーラタ」やイスラム世界の「千夜一夜物語」、ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」など世界各地の物語に影響を与えた。時代が変われども風化しない普遍性を有した物語であるのだ。
「オデュッセイア」は24歌のパートにわかれている。トロイア戦争を終えたオデュッセウスが故郷を目指す。しかし、道中で致命的なミスを犯し海神ポセイドンの怒りを買ったことで、帰郷の旅は壮絶な茨道へと化す。この致命的なミスとは、ひとつ目の巨人族キュクロプスとの戦いによって本名を明かしてしまったことである。キュクロプス族のポリュペモスはポセイドンの子である。オデュッセウスたちに目を潰されたポリュペモスの仇を討つため、ポセイドンは暴風雨によって彼らを遭難させるのだ。
本作はオデュッセウスの視点と彼の帰りを待つイタケの者たちの視点が時系列を組み替えながら描かれる。オデュッセウス不在のイタケでは、遺産目当てで王妃ペネロペと結婚しようと40人もの野蛮な求婚者たちによってスラムと化していた。毎晩のように酒池肉林が行われる中、ペネロペは再婚を巧みに引き延ばしながら息子テレマコスを育て上げた。映画だと少しわかりにくいのだが、宴会で盛り上がる求婚者たちの空間の奥に格子状の扉がある。その奥でペネロペは織物をしている。織物が完成するまで再婚はお預けとしているのだが、実際には昼に織った布を夜に解く遅延行為を図りながら夫の帰還を心待ちにしているのだ。そして、オデュッセイアの生存確認のためにテレマコスを冒険に行かせる。
大学時代に小説家・島田雅彦の授業で「オデュッセイア」を読んだ時以来、久しぶりに触れたのだがクリストファー・ノーラン的物語だったことに驚かされた。
ノーランは映画=時間の芸術であることを実践し続けている監督である。時間を巻き戻したり、入れ替えたりしながらドラマティックに物語を動かしていく。そして、作品を重ねるごとに登場人物を増やしていっている。「オデュッセイア」も同様である。物語としては神の怒りを買ったオデュッセウスが様々な困難を超えて帰還するといったシンプルな話でありながらも、別の場所の物語や回想を入れ子構造にして描いている。そしてオデュッセウスの冒険と並行してテレマコスが旅に出て帰還するまでの物語を描き、ふたりがイタケに戻ってきたとき、壮絶なクライマックスへと雪崩れ込む。元々、各地を巡業しながら物語を語っていくスタイルを取っていた作品だけに似たような話を反復しているので、文庫で触れると取っつきにくさこそあるが、長い時間の中で複数の登場人物がたとえひとりになろうとも信念・執念で動き続け困難を打破する物語は心揺さぶられるものがある。
また、ノーラン作品は『プレステージ』や『オッペンハイマー』などと人間が心の奥に抱える葛藤や嫉妬をテーマにすることが多い。本作品では、ロバート・パティンソン演じる暴君アンティノオスがトム・ホランド演じるテレマコスの貧弱でありながらNo.2ポジションに居座っている様へ嫉妬し、あらゆる策略で潰そうとする姿が描かれている。
大学時代に小説家・島田雅彦の授業で「オデュッセイア」を読んだ時以来、久しぶりに触れたのだがクリストファー・ノーラン的物語だったことに驚かされた。
ノーランは映画=時間の芸術であることを実践し続けている監督である。時間を巻き戻したり、入れ替えたりしながらドラマティックに物語を動かしていく。そして、作品を重ねるごとに登場人物を増やしていっている。「オデュッセイア」も同様である。物語としては神の怒りを買ったオデュッセウスが様々な困難を超えて帰還するといったシンプルな話でありながらも、別の場所の物語や回想を入れ子構造にして描いている。そしてオデュッセウスの冒険と並行してテレマコスが旅に出て帰還するまでの物語を描き、ふたりがイタケに戻ってきたとき、壮絶なクライマックスへと雪崩れ込む。元々、各地を巡業しながら物語を語っていくスタイルを取っていた作品だけに似たような話を反復しているので、文庫で触れると取っつきにくさこそあるが、長い時間の中で複数の登場人物がたとえひとりになろうとも信念・執念で動き続け困難を打破する物語は心揺さぶられるものがある。
また、ノーラン作品は『プレステージ』や『オッペンハイマー』などと人間が心の奥に抱える葛藤や嫉妬をテーマにすることが多い。本作品では、ロバート・パティンソン演じる暴君アンティノオスがトム・ホランド演じるテレマコスの貧弱でありながらNo.2ポジションに居座っている様へ嫉妬し、あらゆる策略で潰そうとする姿が描かれている。
『オッペンハイマー』の後半では原爆開発による加害の問題から外れ、ストローズが政治的にオッペンハイマーを失脚させようとする嫉妬の物語へと転がっていったが、本作では正面から描いている。
このことからもわかる通り、クリストファー・ノーラン監督がホメロス《オデュッセイア》を映画化するのは必然だったといえよう。
松平千秋翻訳版「オデュッセイア」を読むとわかるが、小説として読むにはあまりにも冗長で歪な構図となっている。正直なところ、上巻では200ページ以上先の第九歌のキュクロプスとの戦いになるまで退屈である。また下巻のオデュッセウスが帰郷してからも12の斧を弓矢で射抜く試練から始まる壮絶なクライマックスまで鈍重に感じた。
しかし、ノーランはエピソードを巧みに伸縮させながら3時間飽きさせることなく駆け抜けていく。
まず、「オデュッセイア」最大の盛り上がりポイントであろうキュクロプスとの戦いを40分ぐらいのところで展開している。IMAXによる遠くに響くような重低音が鑑賞者を圧倒する。ここで原作と比較しながら、キュクロプスによる凄惨な捕食シーンを分析しよう。
こういったのだが、情容赦もない相手はそれには何も答えず、つと立ち上がると部下の身体に手を伸ばし、二人の者をまるで犬の仔でも摑むようにして摑むと、地面に打ち付けた。脳漿が床に流れ出して土を濡らしたが、男はその手足をバラバラに千切って飯の用意をする。まるで奥山に育った獅子のようにガツガツと啖い、臓物も肉も髄の入った骨も、少しも残さず平らげてしまった。われらはこの無残な仕打ちを目の当り見て、泣きながらゼウスに訴えるべく手をかかげつつ、心中ただ途方に暮れているばかり。やがてキュクロプスは、人肉を啖い乳を生のまま飲み下して、巨大な太鼓腹を満たすと、岩屋の中で家畜の間に入って手足を伸ばし、ゴロリと横になった。
※「オデュッセイア(上)※松平千秋訳」p231より引用
松平訳では人体破壊に関するディティールにこだわった描写となっている。
一方、ノーラン版では闇の中に人体を隠している。暗闇の中で人体破壊は明瞭に観測できない。すぐ隣にある死、抗うことのできない恐怖、得体の知れなさを主軸に置いている。また、松平訳では太鼓腹の巨漢として描かれていたキュクロプスであるが、ノーランはゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」を彷彿とさせるひょろっとした垂直方向に巨大なモンスターが人体を嫌らしく時間をかけて貪り食うように描いている。オデュッセウスの旅がいかに過酷かを早々に描いていくのだ。
ここから1時間は野蛮な巨人ライストリュゴネス、変身魔法を操るキルケの魔女に誘惑の人魚セイレーンといった強敵ボスラッシュとなっている。『オッペンハイマー』においてテレビシリーズさながら30分ごとに転調を加えることで冗長に陥ることを回避していたが、本作でもエピソードごとに費やす時間を調整して映画として盛り上がるエピソードにできるだけ時間を割くよう調整されている。
その多くは力が入っており、島に上陸し子どもに話しかけたら最後、林の奥から鎧を纏った巨人が隊列を組んで襲い掛かるライストリュゴネス編は恐ろしいものがある。オデュッセウスたちは林を逃げ惑う。しかし、この林にはトラップ魔法が張り巡らされている。木々が気づかぬうちに移動を始め、逃げ惑う者をひっそり囲い込むのだ。気が付けば、木の檻が完成しており、袋の鼠となる。この演出は他の映画であまり見かけないギミックとなっており惹き込まれた。
また、トロイの木馬のエピソードでは、2004年制作『トロイ』と差別化を図るため、城内へ運び出される木馬の造形が2本足で立っているものである。中で潜伏するには明らかに居心地が悪い造形。城内の兵士もそれなりに知恵が回るので、剣で木馬を突きさしていく。殺されるか否かわからない宙吊りのサスペンスはハラハラドキドキさせられるものがある。
ただ、一方で個人的に期待していたセイレーン編は『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の方が精緻に描かれていたように思えた。『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』では、人魚セイレーンが島民やちいかわたちを翻弄して襲い掛かる。セイレーンは大量の触手を使って攻撃をしてくるのだが、これはセイレーンの誘惑を乗り越えた先に待っている12の足を持つ怪物スキュラをモチーフとしているといえる。
『オデュッセイア』では遠くの岩山からセイレーンたちが見つめているだけのショットに留まっており、スキュラの部分も無慈悲に部下が捕食される様を単調に描いているに留まっていた。手数としては意外にも『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』へ軍配が上がった。
確かに、アドベンチャー映画として『オデュッセイア』は面白かった。しかし、それだけではクリストファー・ノーラン史上最高の興行成績を叩き出したこと、IMDbでユーザー評価8.5/10.0(2026/8/14執筆次点)であることに説明がつかないと思っている。そこで最後にひとつ考察を行う。
結論からいえば、本作がこれだけ支持されているのは王道のアメリカ映画をストレートに作ったからであろう。アメリカ映画の基本的な重要要素として1.家族の物語 2.役割の受容がある。米国アカデミー賞を追っていると作品賞を獲る作品は「家族の物語」であることが多い。
一見奇を衒ったような物語である『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』も最終的に家族の物語へと収斂している。作家性が強いシネフィル監督 ポール・トーマス・アンダーソンが鬼才トマス・ピンチョンの小説を映画化した『ワン・バトル・アフター・アナザー』が作品賞を受賞できたのも、最終的に家族の絆の強さをアピールしたからだと推察できる。アメリカ社会は家族至上主義であるとSNSでよく話題になるが、実際アカデミー賞の結果をみても強く感じる側面である。また、アメリカ映画はアメコミ映画を始めとして社会の中で果たすべき役割を全うしようとする中で葛藤する物語が多いように思える。
そして、近年のハリウッドブロックバスター映画はそれに抗おうとして興行・批評で失敗している傾向がある。たとえば、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はその年の最低の作品を選ぶゴールデンラズベリー賞にて最多7部門にノミネートされ、最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞と最低スクリーンコンボ賞の2部門受賞となった。しかし、本作は社会から《ジョーカー》というイメージを押し付けられメディアから注目されるもアーサーとしての側面が無視されてしまうことに苦悩し役割を放棄しようとするメディア論の映画としてよくできていたと私は考えている。
また、『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』では生かさず殺さずインディアナ・ジョーンズから考古学者としての役割を引き剥がす内容となっており、これまた酷評された。
さらに米国アカデミー賞の前哨戦に当たるヴェネツィア国際映画祭で最高賞・金獅子賞を受賞したにもかかわらずアカデミー賞では一切にノミネートされなかったペドロ・アルモドバル『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は、家族との繋がりが弱かったため無視されたように思える。病を患ったマーサは友人に自殺幇助を頼む。彼女には家族がいないが元恋人のダミアンは生きており、かつ彼女の計画を知っている。しかし、主として関わるのは少し遠い関係のイングリッドである。本作は家族の絆から離れたところでの親密な関係性を描いており、また自分の役割を放棄する内容だった。こういった作品は映画興行のメインストリームとは相性が悪いのだ。
一方で、村松一男が「『オデュッセイア』入門」の中で語っている通り「オデュッセイア」は家族の物語である。ペネロペが消息不明の夫オデュッセウスの生存と帰還を信じて再婚せずに故郷を守る。その想いが息子テレマコスを突き動かし、最終的にオデュッセウスと共闘して邪悪な再婚者を打倒する。壮絶な戦いによって家族の絆が強く結ばれる物語となっている。また登場人物はそれぞれ、自分の役割を信じている。オデュッセウスに関しては次々と現れる怪物たちとの戦闘によって失う仲間、言うことを聞かなくなる仲間を前にしても自らの信念を貫き通すことで凱旋を果たす。アメリカ映画に求められている要素を満たしているのだ。
映画評論家・荻野洋一が「ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ」の中で《「アメリカ映画」という呼称は冗語法である》といった言説を紹介していたが、アメリカ映画は今となっては映画そのもののフレームとなり国際的な標準となっている。興行の上で最適化される中で世間が求められる映画の要素として1.家族の物語 2.役割の受容がある。クリストファー・ノーランは職人技でもって世間が求めるアメリカ映画もとい《映画》を創造したのだ。
そのため、恐らく2027年の米国アカデミー賞を大いに盛り上げる一本になりうるといえよう。
日本公開は2026/9/11(金)











