【ネタバレ】『納屋を焼く』イ・チャンドン版を観る前に…
10/6(土)に韓国・釜山で行われる釜山国際映画祭でイ・チャンドン監督の『バーニング劇場版(BURNING)』を観てきます。イ・チャンドンと言えば、『オアシス』や『シークレット・サンシャイン』といった怪作で有名な監督。しかし、『ポエトリー アグネスの詩』以来永らく沈黙していた。そんな彼でしたが、『ペパーミント・キャンディー』でタッグを組んだNHKの持ち寄り企画で、村上春樹の短編『納屋を焼く』を映画化した。その作品こそ『バーニング劇場版』。今年のカンヌ国際映画祭のコンペティションに出品され、国際批評家連盟賞を受賞し多くの映画関係者を興奮の渦に包んだ作品だ。釜山国際映画祭のチケット取りは、東京国際映画祭の時とは段違いの難易度を誇り、開始数分~数時間でほとんどの作品が売り切れる。東京国際映画祭だったら絶対売れ残る、カルロス・レイガダスの3時間の作品『Our Time』や、映画関係者界隈でしか話題になっていないようなタイのインディーズ映画『MANTA RAY』まで販売3時間後の17:30には完売していた。そんな激戦であったのだが、友人の力を借りて『バーニング劇場版』舞台挨拶付き上映のチケットをゲットした。
これは気合いを入れて観なければと、今回原作を読んでみました。非常に難解で不思議な小説だったので、自分なりに整理してみようと思います。本記事は村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のネタバレ記事です。
『納屋を焼く』あらすじ
結婚パーティで出会った「僕」はパントマイムを趣味にしている「彼女」と付き合い始めた。ある日、「彼女」の父親が心臓病で亡くなる。そして彼女は父の遺産を使って北アフリカに行った。暫くして、「彼女」は新しい恋人を連れて帰ってきた。ある時、「僕」は彼と食事をした。「時々納屋を焼くんです」
そう彼は告白してきて…
納屋を焼くにおける比喩と引用の役割
本作を読んでみて、まず困惑した。起承転結の結が限りなく透明に近いのだ。主人公である「僕」は「彼女」と出会い付き合う。「彼女」には他にも男がいるらしいし、普段何をしているのかも曖昧だ。それでもって「僕」からは本気で付き合おうとする気概が全く感じられない。懐古だからなのか、ただなんとなくそこに「僕」と「彼女」がいて、風の吹くままにその場にいるだけなのだ。そんな「僕」が唯一、主体的に動こうとするのが、終盤。「彼女」の新しい恋人から、《納屋を焼く》という趣味を聞かされて、しかもよりによって次の犯行まで教えられる。今まで、他者に無関心に装っていた「僕」は急に、取り憑かれるように彼が次に焼く納屋を探し出すのだ。しかし、結局、納屋が焼かれる瞬間を捉えることはできなかった。ただ、彼に再び会い、「ところで、納屋のことはどうなったの?」と訊いたところ次のように言われるのだ。
「納屋ですか?もちろん焼きましたよ。きれいに焼きました。約束したとおりね」
そして、何故か「彼女」も消えて物語は終わってしまう。
結局、納屋は焼けたのかも分からないし、「彼女」がなんだったのかも分からない。そんな投げっぱなしの世界に妙な魅力を感じた。まず、連想したのは、「納屋を焼く=殺人」のメタファーだということだ。恋人から納屋を焼く話を聞いた次の日に「僕」は本屋で地図を買って、次に焼かれるであろう納屋を探す。しかし、過去に焼かれた納屋については探そうとしない。また、「彼女」が消えてた後の描写で、
「僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。」と語っていることから、「僕」は納屋が焼けたという事実に一度も出会っていないことが分かる。
また、恋人の次の言葉からは、「納屋を焼く」という事象に何かしらのメタファーを入れているように感じ取ることができる。
「『ところで君は自分の納屋を焼くわけ?』と僕は尋ねてみた。彼は理解しかねるといった目つきで僕の顔を見た。『どうして僕が自分の納屋を焼かなくちゃいけないんですか?どうして僕がそんなにいくつも納屋を持っているなんて思うんですか?』」
「『他人の納屋に無断で火をつけるわけです。もちろん大きな火事にならないようなものを選びます。だって僕は火事をおこしたいわけじゃなくて、納屋を焼きたいだけですからね』」
特に次のセリフが重要となっている。
「『あなたは小説を書いている人だし、人間の行動パターンのようなものについてくわしいんじゃないかと思ったんです。それに僕はつまり、小説家というものは物事に判断を下す以前にその物事をあるがままに楽しめる人じゃないかと思っていたんです。だから話したんです。』」
恋人は「僕」を物事をありのままに楽しめる人だと語っているが、実は「僕」は物事を捻じ曲げて楽しんでいる人であることが分かる。「僕」が小学校の学芸会を思い出す場面。京都大学の論説『村上春樹「納屋を焼く」における新美南吉童話との間テクスト性』でも指摘されているように、新美南吉の『手袋を買いに』が引用されている。しかしながら、「僕」の認識と実際の物語は180度異なる。『手袋を買いに』は、狐が母の為に人間に化けて帽子屋へ手袋を買いに行く。しかしながら、ボロを出して帽子屋のおじさんに自分が狐だとバレてしまう。しかし、おじさんは金を受け取り何事もなかったかのように振る舞うという内容だ。「僕」はおじさんが悪人で、狐に断固として手袋を売らない話だと誤認している。
ここで面白い考察ができる。仮に、恋人が殺人が趣味で「彼女」を殺していたとしよう。彼が殺人を趣味にしているとしよう。誰かに話たいが誰にも話せない。比喩として《納屋を焼く》物語を考えたが、普通の人には話せない。そんな中、小説家の「僕」が目の前に現れた。小説家は上記のように物事をありのまま楽しんでくれるであろう。《納屋を焼く》を文字通り《納屋を焼く》物語として認識し、楽しんでくれる。そして自分の抱える膿を出すことができる。と考え恋人は「僕」に《納屋を焼く》話をした。
しかしながら、「僕」は無意識のうちに物語を変えてしまう。ありのままに楽しめない人物だ。ただ、今回の《納屋を焼く》に関しては運よく言葉通りに理解して楽しんだ。この認識差のズレこそが、本作から魅力を引き出しているように感じることができる。
振り返ってみると、本作にはパントマイムという無から形を作り出す存在が無造作に置かれている。大麻を躊躇なく吸うところから「僕」から犯罪に対する意識の希薄さも伺える。北アフリカなんて、普通の人からしたら遠い遠い未知なる存在だ。小説家の癖して、明らかに日常とかけ離れた象徴に対してあまりに無関心すぎる。それが、『手袋を買いに』や《納屋を焼く》になると急に興味が湧いたかのように熱が入る。
村上春樹は、人間というものは、興味関心のあるものに関しては、身体を前のめりにしながら注目するのに、その外側に関しては無頓着だ。それは小説家のように、ヒトを観察するのが仕事の人間であってもという普遍的テーマをこの小説に込めたのではないだろうか。
最後に…
村上春樹は、『海辺のカフカ』こそ中学時代に熱中して読んだものの、割と距離を置いていた作家だ。今回、読んでみて、新宿紀伊国屋1Fの水タバコ屋のように危険な魅惑の匂いに包まれた傑作だと感じた。これを鬼才イ・チャンドンがどう加工したのか非常に楽しみです。既に鑑賞した友人曰く、「今年のベスト。あまりに凄いので2回観た」とのこと。早く土曜日にならないかなぁ…
日本公開決定
2019年2月にTOHOシネマズシャンテ他にて公開されるとのこと。また、邦題が『バーニング劇場版』ということもあり、テレビドラマ版がNHKで放送されるようです。
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原作は読んでませんが、映画は素晴らしかったです。
(=^ェ^=)