『時には懺悔を』平成の、本物の、暴力の中で

時には懺悔を(2026)

監督:中島哲也
出演:西島秀俊、満島ひかり、黒木華、宮藤官九郎、毎熊克哉etc

評価:ー


おはようございます、チェ・ブンブンです。

中島哲也8年ぶりの新作『時には懺悔を』が公開された。本作は打海文三の同名小説を映画化したものである。この作品は2025年6月に公開される予定だったのだが、『渇き。』に出演していた俳優が性的加害を受けたと告発した事象に対する第三者を交えた調査・検証のため延期となっていた。

法的な調査権限を持たない別作品に対する任意の調査であったことから、一部の関係者からの十分な証言が得られず、原因を特定するには至ることができなかったため、すべての事実関係を解明することには限界があった

※『時には懺悔を』公式サイトより引用

2026年2月13日に、当事者と和解したとのの報告と共に上記のような調査の限界の旨が述べられていた。また、『時には懺悔を』ではインティマシーコーディネーターや心理カウンセラーの導入、そして障がい者の出演者に対する配慮を行ったことを明記し8月28日より全国公開となった。

映画業界は元々コンプライアンスに関する問題が多く、後に出演者から告発される事象が後を絶たない。園子温やキム・ギドクのように完全にキャンセルされ、かつては賞賛されていたものの今ではその作品を好きだと言うことすらタブーとなっているケースやアブデラティフ・ケシシュ、ラース・フォン・トリアーのようにグレーゾーンの中で作品を作り続けているケースもある。双方を分けるのは映画のクオリティなのかもしれない。映画単体としてのレベルがハイレベルだった場合、作品と人間は切り分けるべきとし、個人の問題は別で考えながらも作品は作品として評価されるが、作品のクオリティが低かった場合、致命傷となり現代では業界復帰することが困難となる。

映画業界に限らず、会社などの組織の中で働いていると法よりも優先されるルールが存在する。そのルールによって潰されたとしても、当事者が反発したところで、実績の有無がヒエラルキーとなり多くはもみ消されてしまう。そして外側からはブラックボックスとなる。SNSの時代になり当事者が声を挙げることが簡単になったとはいえ、パワーバランスの問題は常に付きまとう。そして法治国家である以上、外野が断片的な情報を基に安易に断罪するのは思っている以上に加害的行為だといえる。映画業界には疑惑の監督、妙な噂が流れているも問題が顕在化していない監督は少なくない。そして、今回のケースのように和解が成立しているとはいえ、どこか責任関係の所在整理で有耶無耶になっている部分(社会人になって会社と揉めたことある人ならこの違和感に既視感を抱くだろう)がありそうな状況での公開になることもある。

そうした際、どのように映画と向き合えば良いだろうか。少し前に本作にも出演している佐藤二朗がフジテレビ系ドラマ「夫婦別姓刑事」にて共演者である橋本愛との間にハラスメントがあったとし問題となった。

公開されると、留保の部分はありつつも映画は傑作であるといった声が散見された。正直、わたしは忙しい上にここまで問題が多いのなら観たくないと思っていた。数日前までスルーを決めていたのだが、本作では障がいを抱える演技未経験の子どもたちが出演していると耳にしたことをきっかけに、重い腰をあげて鑑賞を決めた。

というのも、濱口竜介『急に具合が悪くなる』における黒崎煌代が知的障がい者の役を演じている部分に関して批判的に観たからだ。演劇の中で黒崎演じる智樹が客席から舞台へ上がり自由に振る舞う。公演が台無しになるのかもしれない緊迫感が映画でありながらも実際の演劇に近い緊迫感をもたらしていた。この作品を観た際に、てっきり当事者を起用しているのかと思ったのだが、エンドロールで衝撃を受けたのだ。それほどまでにリアルな演技をしていた。そして、これは恐らくジャック・リヴェット『アウト・ワン 我に触れるな』におけるジャン=ピエール・レオの演技を援用していると感じた。ただ、『ドライブ・マイ・カー』の手話問題同様に障がいを映画の記号として落とし込んでしまっている問題があり、個ではなく自然なる存在として障がい者を利用し、その表現の必然性に疑問を抱かせたまま映画が終わってしまった。

では、当事者を起用すればよいのかといった問いが自然と生まれてくる。にもかかわらずこの作品を観ない選択肢は自分で自分が許せない卑怯な行為だと思ったのだ。

ということでレビューしていく。本作に関しては観る/観ないの選択自体に多少なりの加害が伴う可能性があるため、点数による評価は保留とし、オススメすることも、観ない方が良いとこちらから明言することはしない。各自の判断に委ねるとする。

『時には懺悔を』あらすじ

「告白」「渇き。」の中島哲也が、「来る」以来8年ぶりに手がけた監督作。打海文三の小説「時には懺悔を」を原作に、家族から目を背けた男、娘に捨てられた女、子を生きる糧にした男、産んだ子を愛せない女など、それぞれ過去に傷を抱えた大人たちが、いまを懸命に生きるひとつの小さな命との出会いを通して再生していく姿を描く。

探偵の佐竹と助手の聡子は、ある殺人事件の真相を探るうち、9年前の誘拐事件で連れ去られた、「新」という子どもの存在にたどり着く。重い障がいがありながらも数奇な運命を生きのびてきた新。いまを必死に生きるひとつの小さな命によって、傷ついた大人たちが再び生きる力を取り戻していく。

中島監督と初のタッグとなる西島秀俊が、家族との不和を抱えながら生きる男・佐竹役で主演を務めた。そのほか、西島と初共演となる満島ひかりをはじめ、黒木華、宮藤官九郎、柴咲コウ、塚本晋也、片岡鶴太郎、佐藤二朗、役所広司ら日本の映画界を支える実力派キャストが集結した。

映画.comより引用

平成の、本物の、暴力の中で

『時には懺悔を』を観て真っ先に思ったのは、「平成の、本物の、暴力を描いた最後の作品かもしれない」といったものだった。

葬式の場面から始まる。

西島秀俊演じる佐竹はボロボロの状態で葬式に参加する。米本(佐藤二朗)の葬式はガランとしており、「死ぬべき人が亡くなった」といった呪詛が重ねられる。佐竹はこの殺人事件を調査することになる。助手として聡子(満島ひかり)がつく。彼女は、高い学費を稼ぐために夜勤の仕事をしながら、探偵の手伝いをする。技術を身につけるために必死なのだが、ぞんざいに扱う佐竹に怒りを顕にする。

映画は10秒以内にカットが切り替わる。対話のシーンも対話になっていないような言葉のドッヂボールであり、ひたすら相手の会話に暴力的に被せていく。出てくる人のほとんどが、トラウマや苦悩を抱えており、人も社会も信頼できない様、余裕のなさから暴力的に振る舞う。聡子も佐竹の振る舞いをコピーするかのように怒号を浴びせていくのだが、24時間生きるために必死になっているため、崩れ落ちるように、怒っているのか泣いているのかわからないような精神不安定さを魅せることがある。バブル崩壊後、社会から見放された者たちが、常に心身双方から来る暴力に晒されながら役割を全うしようとしがみつく。社会全体がどんよりとしていて不安に押しつぶされそうになりながらも、死は選べないような平成特有の暴力を余すことなく描いている。

安定感のある名優たちの演技合戦なため、多分そうなんだろうけれども、「ハラスメント防止、適切な情報共有、インティマシーコーディネーターや心理カウンセラーの導入による身体的・精神的ケアなど十分に配慮した体制のもとで制作を進めました」といった声明も本当なんだろうけれども、あまりにも本物の暴力を圧縮に圧縮された密度で提示してくるので、かつて会社の先輩に8時間に渡って怒号を浴びせられた辛さを思い出した。

こういうのは濱口竜介、三宅唱、深田晃司といった海外の映画祭を走る今のトップランナーが仮に平成の闇を描こうとしても再現できないものがあるし、暴力映画を得意とする白石和彌でも出せないような怖さがあった。出演者の負荷も相当なものなはずなので、《平成の、本物の、暴力》を描いた最後の作品になるといえよう。

Xで言われている通り、本作において宮藤官九郎と佐藤二朗の演技がずば抜けて上手い。特に宮藤官九郎は、ボロボロの姿で束の間のタバコと酒をたしなみながら、障がいを抱えた子どもの面倒をみる男を演じている。表向き明るく振る舞っているのだが、彼は十字架を背負っており、知識がないなりにも創意工夫して男でひとつ面倒をみている(映画演出としては、ハチミツ入りカレーを食わせることでボツリヌスのことを知らない様を表現しているのだが、直接医者から言及するシーンを敢えて入れていないところが巧い)。この時の彼の演技は、もはや《宮藤官九郎》としてのオーラが消えており、土手にいるおじさんそのものと同化している。演技とは思えぬ自然体、ドキュメンタリーにしか見えない育児に圧倒された。

佐藤二朗はもはや《佐藤二朗》である仮面を脱ぎ去ることができないため、自身のもつ胡散臭さを軸とした人間味を表現する。聴き取り調査で、雑に札束わたし、目を合わせずに巨大な図体でじっくり間合いを詰めていくところ。胡散臭いのだが、人道的行為をする時には用意周到に、相手に歩み寄った口調で話す様。胡散臭い人特有の気が付けば間合いに入られている様を好演していた。それだけに、「夫婦別姓刑事」での問題は残念に思えた。

本作に登場する障がい者は一人だけではない。障がい者施設にいる子どもたちも当事者である。障がいといっても知的障がい者がメインとなる。『急に具合が悪くなる』と比べると、「生きている価値のない者が殺された」といった出発点から始まり、知的障がい者を育てる者の葛藤を複雑に結び付け、「生きる価値のない者は存在しない一方で綺麗ごとに押しつぶされそうになる人もいる」といった視点からフィクションとしてのカタルシスを与えるような作品となっている。故に障がい者が密に物語に関わっているため『急に具合が悪くなる』と比べると必然性を有する。さらに、当事者を起用することによる観客に居心地の悪さを与える狙いも効果的に思える。

先日、ピーター・ブルック『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』(以下、マラー/サド )を観た際に、

同情心とは特権階級の所有物なのだよ。
与える者の心は貧民への軽蔑心でいっぱいだ。
心動かされたフリをして貧民を足蹴にしているだけ。

※『マラー/サド』より引用

といった言説があった。『時には懺悔を』では、安易な同情を観客に持たせないような作りとなっており、登場人物全員が暴力的なもの、倫理的にアウトなもの、そもそも犯罪に手を染めているといった特性をもっており、それでも人として存在を否定されるべきではないとしている。

映画の中に登場する障がい者も子どもがほとんどなので、いくら親族の意見を聞いて、また怒号が飛ぶようなシーンはカット割りでその場に障がい者の子どもをいさせないような工夫がされているも、本人の意思が反映されているのかがグレーゾーンであるので、これが安易に映画を観ることを阻んでいる。

確かに当事者が出演しているハードな作品には『ザ・トライブ』があるが、この作品の出演者は手話で意思疎通できるし、自分の意見を映画に反映させられる余地があるのだが、『時には懺悔を』の場合、当事者本人が何もわからずに壮絶な映画の世界に迷い込んでいる可能性が拭い去れない。

総じて、映画としては重厚な理論を基に作られた暴力映画といった印象なのだが、この作品に点数をつけることはしたくない。この作品に漂う問題を意識しながら映画業界へ眼差しを向けていく必要があるだろう。