モルエラニの霧の中(2019)
監督:坪川拓史
出演:大杉漣、大塚寧々、香川京子、小松政夫、坂本長利etc
もくじ
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
2021年は超長尺映画が少なくても5本公開されるマニアにとって嬉しい年だ。カイエ ・デュ・シネマベストテン2020において1位を獲得した『City Hall』は年末に配給が決まったと連絡を受けた。また、8時間映画『仕事と日(塩尻たよこと塩谷の谷間で)』、恐らくイメージフォーラム上映となるであろうサニーフィルム渾身の配給作品『Heimat Is a Space in Time』、クシシュトフ・キェシロフスキ『デカローグ』リバイバル上映が控えている。
そんな2021年を飾る超長尺映画トップバッター『モルエラニの霧の中』を観てきました。本作は東日本大震災をきっかけに室蘭に帰郷した坪川拓史が5年の歳月をかけて製作した作品。今は亡き大杉漣や小松政夫が出演していたり、大御所中の大御所・香川京子が重要な役で登場したりする注目作なのですが、昨年の新型コロナウイルスによる影響で1年近く公開が延期となり、いざ公開してもSNSでは全く話題になっていない。Filmarksでは公開1週間経過しても18投稿ぐらいしかない悲しい感じとなっていました。しかし、それはSNSだけの話。実際に岩波ホールを訪れてみると、平日にもかかわらず多くのお客さんで賑わっていました。どうやらSNSを使わない層で盛り上がっているらしい。実際に観てみると、こんな傑作が全然周知されていないのはよくないと思いました。そこで超長尺映画マニアとして、ここに感想を書いてみることにしました。
『モルエラニの霧の中』あらすじ
北海道室蘭市の美しい風景とともに失われていく街の記憶をめぐる物語を、7話連作形式で描いた作品。タイトルの「モルエラニ」は、北海道の先住民族であるアイヌの言葉で「小さな坂道をおりた所」という意味で、室蘭の語源のひとつとされている。街で出会った人びとから聞いた実話をベースに、5年の歳月をかけて撮影。第1話・冬の章「青いロウソクと人魚」、第2話・春の章「名残りの花」、第3話・夏の章「しずかな空」、第4話・晩夏の章「Via Dolorosa」、第5話・秋の章「名前のない小さな木」、第6話・晩夏の章「煙の追憶」、第7話・冬の章「冬の虫と夏の草」の7つの物語から構成され、地方都市に生きる人びとの姿が優しいまなざしで描かれる。大杉漣、大塚寧々、香川京子、小松政夫、水橋研二、菜葉菜らのほか、室蘭の地元の人びともキャストやスタッフで多数参加している。監督、脚本、音楽は長編デビュー作「美式天然」で第23回トリノ国際映画祭グランプリと最優秀観客賞を受賞し、東京から室蘭へと移住した坪川拓史。
酔生夢死の霧に朧げなひかり
全7話からなる『モルエラニの霧の中』は、「何者」になろうとして情報の渦に溺れゆく現代人に対する処方箋のような映画だ。本作に登場する人物は、何者でもないありふれた人であり酔生夢死な人生を全うする人たちのように描かれている。監督の思い入れのある地が舞台であるにもかかわらず、土地のPRは一切行わず、室蘭のある地点の黄昏をじっくり、じっくりと紡いでいく。意外なことに土地や人生が終わる瞬間に負のオーラはない。人生の中で起きる映画的ドラマはないけれども当人にとっては重要な問題を優しい音楽と豊饒な色彩で包み込む。思い出はモノクローム、色をつけてくれ!と懇願することもなく、人生賛歌を映像詩として銀幕に流し込むのである。坪川拓史の早すぎる時代の動きに流されず、逆らわず前を向き続けて生み出された映像表現は鋭いものがある。序盤3話で世界観を描き、後半4話では群像劇のように、それぞれの話の登場人物が関係しあい、土地を去る、居場所がなくなる、人生が終わる様子を大団円として盛り上げていく。さて、それぞれの章について書いていくとしよう
第1話 冬の章「青いロウソクと人魚」
クラゲがモノクロームな世界の中で浮遊している。自由に泳いでいるようで水槽という狭い空間に押し込められ窮屈そうだ。シンメトリーに映し出されるクラゲの水槽はその息苦しさを増長させる。それをみかねて引っ越してきた少年・武藤霧(濱長卓生)がクラゲを盗み出そうとする。閉塞感からの解放表現としてカラーが効果的に使われており、少年は色彩を帯びた世界(=開けた世界)から閉塞感のある世界に入り、閉じ込められている存在を外へ導く話になっている。しかし、ここで完全に開けた世界に導くのではなく、モノクロームに染まった自然の中でバレリーナが踊る幻想的なシーンを用い、自分の世界の中にある開かれた空間を見つけ出すところが面白い。ケリー・ライカートやクロエ・ジャオが、何処へでっも行けそうで何処にも行けないアメリカの閉塞感を描いていた。日本も段々とと彼女たちの描くアメリカのような閉塞感に蝕まれていくだろう。そんな時代だからこそ、坪川拓史の描く閉塞感からの脱出には希望を感じる。
第2話 春の章「名残りの花」
『コーヒーが冷めないうちに』における幻影描写がイマイチだったのが中々言語化できなかったのだが、第2章で描かれる生死時空を跳躍する表現を観て、これが正解だと思った。本章は前半における最大の魅せ場である。切り返しでもって死や記憶を描く超絶技巧が堪能できる。
大杉漣演じる写真屋のおじさん小林幹夫が時計の調整をして、日課であろう鳥の餌やり、レコードの音に浸りながら朝食を食べようとすると倒れる。死の淵に立たされた彼の見舞いにやってきた元妻の息子・真太(河合龍之介)と写真館の一角でキャンドルショップを営む武藤映子(大塚寧々)が幹夫のことを想う。
映子が鳥の餌を与える場面がある。彼女が振り返ると、何もない机と椅子があるのだが、幹夫の声が聞こえる。ショットが切り替わると、そこに幹夫がいる。かつての輝ける時が走馬灯のようにフラッシュバックしてくるのだ。そこに現れるのが、香川京子演じる謎の女。現実離れした白味、後光を身に纏いながらやってくる彼女は、フッと画面の中心にいたかと思うとスッと消えてしまう。幽霊のような存在だ。ショットの切り返しで、自由自在に時空や生死の狭間を縫っていく。『幽霊と未亡人』のラストの感動が延々と続くような章であった。
第3話 夏の章「しずかな空」
本作はゆったりとしたペースで進行するのだが、ここでは静かなアクションが展開される。冒頭、家の立ち退きを求め水野麻里(菜葉菜)が野崎家にやってくる。そこに老人ホームの人がやってくる。彼女は敬語もなっていないような女で麻里を苛立たせる。そんな麻里の怒りにつけこんで、「あんた美人ね。私もあんたのようになりたい。」と不意打ちをかます。この二人の会話によるアクションが魅力的で、後に老人ホームの女は外国人で移住してきたことが分かる。日本語が流暢なのに、「私日本語わからない」と言う彼女に若干嫌味を言う麻里。そんな麻里は彼女が饒舌に専門分野である生物学の話を聞かされ、「日本語がペラペラなのにその日本語が分からない」感覚がブーメランのように返ってきてしまい気まずくなる。一方、小林政夫演じる野崎は、口もきけなくなってしまった妻と静かなる闘いを繰り広げる。彼が、ご飯を妻の口に入れようとすると彼女はンンッ!!と頑なに拒む。必死に、ご飯を入れようとする地味ながらも戦略的な闘いを顔のカットで表現している。そして地味なアクションが積み重なり歌の合唱という形で大団円となる。これを観て私の心はガッツリ掴まれました。
第4話 晩夏の章 「Via Dolorosa」
この短い繋ぎの章では中国映画のような、閉塞感の中疾走するトラックの中で繰り広げられるライターの授受の美しさから始まる。閉ざされた空間に差し込む青い光、ピアノをエッサコラさと運ぶスリル。どこか『ミークス・カットオフ』のような先の見えない閉塞感の中で自分の居場所を見つけようとする話のように見えた。
第5話 秋の章 「名前のない小さな木」
「思い出はモノクローム、色をつけてくれ」とよく言われるが、閉塞感の中生きる者にとって幼少期の思い出は既に色がついたものだ。寧ろ鮮明に蘇ってくる。第2話で死の淵に瀕した写真家が、幼少期の久保桃子の写真を撮る。町を去ることになった彼女は、町を歩きながら思い出を整理していく訳だ。『男はつらいよ お帰り 寅さん』で旅する土地が遂に「寅さん」という概念になったのだが、閉塞感がある現実において過去に旅してもいいのでは?と優しく語りかけてくる話である。
第6話 晩秋の章 「煙の追憶」
ここに来て、ルイス・ブニュエルの『幻影は市電に乗って旅をする』に挑戦している。科学館に展示されている蒸気機関車が解体されることになり、この機関車の乗務員だった老人が吉井(坂本長利)が酒に酔った状態で夜な夜な科学館に忍び込む話。プロットは一緒なのだが、機関車の反射で薄ら像見える陰影が深い空間のな中で吉井がワンカップを呑み、そのまま夢の中で機関車を動かすシーンの哀愁と至福描写が素晴らしい。序盤に登場したポンコツロボットがファンタジー要素を強め、黄昏に魅せる微かな歓びを捉えていたと言えよう。
第7話 初冬の章 「冬の虫と夏の草」
寿退社することになった介護士・久保七海(橋本麻依)が季節の変わり目になると施設を抜け出す河村作次(佐藤嘉一)と交流する話。朽ちた木を通じて、老人の使命が浮き上がってくる。社会的には意味はないように見えても、本人にとって生きがいとなっており人生に意味を見出すところは、「何者」にならないといけないと焦る現代人にとって癒しとなるだろう。色彩を帯びた空間の中で、木の継承者になることを拒んだ男が今や木の最期を自分の人生の最期と共に二人三脚ゴールしようとする。その尊さに涙しました。
最後に
5年の歳月をかけて画面サイズや色彩を絶え間なく変化させ続け紡ぎ出した、人生賛歌は本来、大林宣彦が遺作でやるべきものであった。『海辺の映画館 キネマの玉手箱』は大林宣彦が遺言状で伝えたいメッセージが多すぎて空中分解してしまったイメージがある。それに対して『モルエラニの霧の中』では大胆ながらも冷静に、疲弊する現代に対して救いの手を差し伸べているといえる。アイヌ語で「小さな坂の下」と言う意味を持つ《モルエラニ》。坂の下にだって生きる希望はあると訴える監督の想い、私は強く受け止めました。
岩波ホールは平日でも結構混んでいるので、土日行かれる方は注意してください。
※映画.comより画像引用