【酷評】『ういらぶ。』悪意なき悪は何故タチが悪いのか?

ういらぶ。(2018)

監督:佐藤祐市
出演:平野紫耀、桜井日奈子、玉城ティナ、磯村勇斗、桜田ひよりetc

評価:マイナス5億点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

最近は、時間が勿体無すぎて当たり屋はしなくなった。明らかにポンコツな映画をわざわざ批評するくらいなら、批評家が作家主義というブランドの中で盲目的に絶賛している作品に対して反証を書くほうが有意義だと思い始めたからである。しかしながら、日本未公開のアート系映画や『死ぬまでに観たい映画1001本』を延々と観ていくと疲れてしまう。たまには、あからさまなポンコツ映画の批評やら感想を書いてみたくなる。そんな中、Twitterのフォロワーさんが『ういらぶ。』という映画に悶絶しているのを目にした。映画館で観たら発狂するほどの作品らしい。そして、『時計じかけのオレンジ』におけるロボトミー手術的地獄を味わえる作品とのこと。Netflixで配信されていたので、観たのですがこれが想像以上の地獄でありました。

『ういらぶ。』あらすじ


累計発行部数180万部を突破した星森ゆきもの人気コミック「ういらぶ。 初々しい恋のおはなし」を実写映画化した青春ラブストーリー。同じマンションで一緒に育った高校生の凛、優羽、暦、蛍太の美男美女4人組。優羽のことが好きすぎて冷たくあたってしまう凛と、凛に思いを寄せながらも彼の態度のせいでネガティブ思考に陥っている優羽。暦と蛍太は、そんな2人のことを心配しながら見守っていた。ずっとこのままだと思っていた4人の関係が、「好きなら好きとハッキリ言う」和真の登場によって大きく動きはじめる。凛役をジャニーズJr.の人気ユニット「Mr.KING」の平野紫耀、優羽役を「ママレード・ボーイ」の桜井日奈子、暦役を「PとJK」の玉城ティナ、蛍太役を「覆面系ノイズ」の磯村隼人、和真役を「サクラダリセット」の健太郎がそれぞれ演じる。「ストロベリーナイト」「脳内ポイズンベリー」の佐藤祐市監督がメガホンをとり、「大奥」の高橋ナツコが脚本を担当。
映画.comより引用

悪意なき悪は何故タチが悪いのか?

2010年代後半は、少女漫画原作の作品が量産されひと時代を築いた。漫画の実写化の中でも少女漫画はハードルが低く、女子中高生の集客が安定して見込めるため、大量生産された。明らかに、消費コンテンツとして存在するわけだが、スクリューボールコメディないしジェリー・ルイス系コメディのような豪傑さが面白く好きなジャンルである。特に2015~2016年にかけての黄金期に作られた作品は天下一品であり、『黒崎くんの言いなりになんてならない』における胸キュンシーンの手数の多さはもはやアクション映画といっていい程の迫力があった。『オオカミ少女と黒王子』では、少女漫画映画のクリシェを突き詰めることにより、バレるかバレないかサスペンスや恋の駆け引きの面白さが滲み出ていた(余談だが、教育実習の際、ホームルームで『オオカミ少女と黒王子』の素晴らしさにつて講義したことがあります)。

この手の映画のクリシェは男に消費される女という問題あるものを抱えているのだが、月川翔や廣木隆一はクリシェを分析し、自分の技術と組み合わせ、豪快に乗り越えていくことで批判から逃れようとしていた。かつてロマンポルノがそうだったように、少女漫画原作映画には隠れた超絶技巧を楽しむ側面があるのです。

閑話休題、『ういらぶ。』の場合はどうだろうか?

結論から言えば、クリシェを舐めすぎである。薄っぺらいクリシェに乗っかった結果、ラース・フォン・トリアーやミヒャエル・ハネケ系の凶悪な作品が爆誕した。ただ、ラース・フォン・トリアーやミヒャエル・ハネケ系の作品は、確信犯的に悪を描いている。善悪の彼岸に真っ向から挑戦することによって、観客に対し芸術と社会的悪との向き合い方を突きつけていくのが様式美となっている。善悪の彼岸から逸脱して悪を描く、それも悪意なく悪を描いている本作は、中高生に見せてはいけない代物となっていた。

冒頭からドS系男子・凛が心身共にヒロイン・優羽を虐めるところから始まる。そして言い訳のように彼が「ついついイジメちゃうんだよね」と語り始める。この時点で2010年代の倫理観からするとアウトだ。そして、冒頭にそのような描写を持ち込むということは、映画全体がイジメを肯定する物語となっていることを予感させ、それは現実のものとなる。

ヒロインの優羽は冒頭から、ビクビクしている。凛を愛しており、凛に愛されたいが故にイジメを欲し、自分がゴミであることをアイデンティティとしてしまっているのだ。まさしく『ガス燈』における言葉による暴力で壊れてしまったヒロインそのものである。そして幼馴染の暦と蛍太はそんな歪な関係性を心配して見るのだが、段々とこの二人も優羽がモノ扱いされていく様子を受け入れ、彼女をモノとしてしか扱わなくなってくるのだ。次から次へと新キャラが現れる。新キャラですら凛のあまりに軽い《イジメ》を容認し、「カノジョ(仮)」という凄惨な人権意識に問題提起することをやめてしまう。

ニーチェは、人生が永遠に繰り返されるとしたら、人生は重いものとなるだろうと考え、その理論を基にミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』を書いた。『ういらぶ。』に出てくる人物の「軽さ」に私は耐えられない。彼ら/彼女らの人生は、将来のことなど考えていない行き当たりばったりなものだ。それ故に、その場限りの愛や友情が軽々しく描かれている。イジメが持つ責任なんてものもない。だから『聲の形』みたいな贖罪とも無縁で、対等な関係になることなくいつまでたっても主従関係が続いているのだ。誰かさんが「死ぬこと以外かすり傷」といったが、人生を歩めば歩むほど、社会に蔓延する複雑に絡み合った哲学/倫理観と自分の中にある思想とが対峙されどうしても重くなっていく。そして過去の自分から思想をアップデートしていくと、そこには痛みが伴う。かすり傷ではすまない。それだけに『ういらぶ。』に蔓延する害悪な悪意なき悪の渦に精神が破壊されそうになった。

映画はあくまでフィクションではあるし、見たくなきゃ観なければいいという自衛の思想も分かるのだが、果たしてこのような映画が2010年代に存在していいのだろうか?いくら多様性や表現の自由が叫ばれても、中高生に与える悪影響を考えると看過しがたいものがある。原作がそうだったから?いやたとえ原作がこのようなイジメやDVを容認する内容だとしても、表現者として製作陣は内容を変える、もしくは技術面でカバーすべきだと思う。少女漫画映画をバカにし、クリシェに安易に鎮座する姿勢から私は怒りを抱き、この《存在の耐えられない軽さ》に殺されそうになったのであった。

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