修羅(1971)
監督:松本俊夫
出演:中村嘉葎雄、三条泰子、唐十郎etc
評価:65点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
先日、早稲田松竹で松本俊夫二本立てを観に行きました。松本俊夫といえば、『薔薇の葬列』や『ドグラ・マグラ』といった前衛映画を作っているイメージが強かったのですが、時代劇も作られていたようです。Filmarksでの評判も高いので観てみました。旧作邦画ももうそろそろ観ておかないと映画検定1級で出題されるかもしれないですしね。
『修羅』あらすじ
塩治の浪人薩摩源五兵衛は、主君仇討に参加しようと、敵の眼をあざむくため酒色におぼれているように見せかけていたが、芸者小万に対する執心はそれ以上のものがあった。小万もまた腕に「五大力」をほる程に源五兵衛を慕っているかのように見えた。源五兵衛の苦悩は、仇討ちに加わるための御用金として必要な百両が調達できないことにあったが、このことを我がことのように感じている忠僕八右衛門が、四苦八苦の末ようやく金の工面をして戻って来た。源五兵衛は、自分のふしだらを恥じ、改めて義士連判に加わる決意を新たにした。だが折も折、高野の侍賎ケ谷伴右衛門から、百両で小万身請けの話が持ち上っていることを三五郎から聞くと、矢も楯もたまらず、八右衛門が工面した百両を投げだし、小万を身請けしてしまった。しかし身請けした以上我が物になると信じていた源五兵衛は、小万にはれっきとした三五郎という亭主と子供まであり、自分が仕組まれた芝居にだまされたことを知ると復讐の鬼と化し、芝居を仕組んだ三五郎の手下を斬殺した。一方、辛うじて逃げのびた小万と三五郎は、乳のみ児をかかえ四谷の長屋に身を秘めた。そして三五郎は、父徳右衛門の主筋に当る人のために調達したその金百両を届けに、徳右衛門を訪ねた。その間、三五郎のすまいをつきとめた源五兵衛は、小万の「五大力」の彫りものが「三五大切」に変っているのを見ると、乳のみ児と小万を殺してしまった。その頃、百両を手にした三五郎と、徳右衛門は一刻も早く主人船倉宗右衛門に渡そうと、近くにある庵室を訪ねた。庵室では源五兵衛が、うち落してきた小万の首を机の上に置いて、酒を飲んでいる。源五兵衛こそは船倉宗右衛門の世をしのぶ仮の名だったのだ。顔を合わせた源五兵衛と三五郎の気の転倒するほどの驚ろきはいうまでもなく、二人はこれまでの出来事が何を物語っているのか一挙に知った。三五郎は自決し、嗚咽にむせぶ徳右衛門をひとり残し、源五兵衛はいずこへともなく去った。数カ月後、塩治の浪人は討ち入を決行したが、もちろん船倉宗右衛門の名を義士の列名から見出すことはできなかった。
※映画.comより引用
松本俊夫の殺戮の反復が恐怖と笑いを掘り起こす
反復は恐怖を増幅させる。ということは中川信夫『東海道四谷怪談』やラース・フォン・トリアー『ハウス・ジャック・ビルト』で証明されている。強烈な恐怖を描いておく、そしてそれを匂わせる演出を再現することで、トラウマがフラッシュバックしていく仕様だ。ただ、それを執拗に繰り返すとそれはギャグに変わる。『ハウス・ジャック・ビルト』で何度も繰り返される、警察に逮捕される危機が迫っているのに、家に戻って血痕をぬぐい去ろうとしていく様は爆笑ものでした。さて、理論の前衛映画作家・松本俊夫は恐怖と爆笑の狭間にある反復を描いている。主人公の屁っ放り腰・浪人薩摩源五兵衛は、大殺戮を夢や妄想で作り出していくのだが、実際には屁っ放り腰故、未遂に終わる。しかし、彼が狂気に取り憑かれると、その殺戮は緻密に再現される。数度にわたり、殺戮の過程が繰り返される。場面によっては、殺戮が実現される様子を幾つかのカメラワークで執拗に再現していくのだ。くどいまでの殺戮演出は、ゾッとする恐怖を超え、笑いになる瞬間を捉えている。
映画は、非常にシリアスだ。登場する人物の大半が、金絡みで死んでいく。赤ちゃんですら、あまりに酷い死に方をする。しかし、バラエティ番組さながらのカットの切り返しによって妙な笑いが生まれてくるのです。松本俊夫、なんて恐ろしい監督なんだ。今敏ばりに寡作なのですが、もっと映画を撮っていたらどんな世界を魅せてくれたのだろうか?もっと彼の世界観を味わいたいなと思いました。残す1本『十六歳の戦争』は近いうちに観たいところである。
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