日の名残り(1993)
THE REMAINS OF THE DAY
監督:ジェームズ・アイヴォリー
出演:アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、ジェームズ・フォックス、クリストファー・リーヴetc
評価:85点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
中学生の時に観て退屈に感じた映画も、大人になって観返してみると印象がガラリと変わることがある。今回、黒澤明監督のあの名作をリメイクした『生きる LIVING』公開に併せて、カズオ・イシグロ原作の『日の名残り』を観てみた。中学時代に観た時は、あまりにつまらなくて寝た記憶があるのだが、今観ると、普遍的なサラリーマンの悲哀に満ちた作品であり心に刺さったのだ。
『日の名残り』あらすじ
ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの同名ベストセラーを、「眺めのいい部屋」のジェームズ・アイボリー監督が映画化。イギリスの名門貴族に人生を捧げてきた老執事が自らの過去を回想する姿を丹念かつ重厚な演出で描き、第66回アカデミー賞で作品賞を含む8部門にノミネートされた。1958年、オックスフォード。ダーリントン卿の屋敷で長年に渡って執事を務めてきたスティーブンスは、主人亡き後、屋敷を買い取ったアメリカ人富豪ルイスに仕えることに。そんな彼のもとに、かつてともに屋敷で働いていた女性ケントンから手紙が届く。20年前、職務に忠実なスティーブンスと勝ち気なケントンは対立を繰り返しながらも、密かに惹かれ合っていた。ある日、ケントンに結婚話が舞い込み……。アイボリー監督の前作「ハワーズ・エンド」に続いてアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンが共演した。
サラリーマンあるある過ぎて生々しい
ジェームズ・スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)は屋敷が人員不足になった為、ふたり雇うこととなる。ひとりは自分の父親ウィリアム(ピーター・ヴォーン)。50年近く執事を務めている大ベテランだ。もうひとりは女性のミス・ケントン(エマ・トンプソン)だった。早速、仕事が始まる。近々、国家を揺るがす重要な会議が開かれるとのことで、一切のミスが許されない。現場はピリついていた。そんな中、ケントンはスティーヴンスに、ウィリアムの仕事の質が悪いことを伝える。そして、仕事量を減らす提案をする。しかし、実際のミスを突きつけられても彼は応じなかった。これが大事故を生む。ウィリアムは紅茶を運んでいる途中につまづいてしまうのである。主人が、「ウィリアムの仕事を減らしてこい」と言うと、今まで頑なに応じなかったスティーヴンスはコロッと手のひらを返したように振る舞うのだ。本作は、より良い仕事をしようとするが上に、「誰が言ったか」を気にして本質的問題を無視してしまう様を描いている。その様子は、物語の舞台から半世紀以上経った日本の組織でも日常茶飯事な光景である。数字と政治しか見なくなった時に、人間味を失い冷たくなってしまう者の肖像がここにあるのである。
ここでさらに注目すべきは、ウィリアムの態度であろう。スティーヴンスはウィリアムに仕事を減らす旨を伝える。対して彼は逆ギレをするのだ。それはプライドから来る問題なのか?黒澤明『生きる』で言及された小話を引用すると、その中の心理が読み解ける。『生きる』で部下の小田切とよ(小田切みき)が投書を読む。有給を使わず働く男がいる。なぜ、そこまで熱心に働くのかというと、自分がいない状況でも会社が回ってしまうことが不安だからだとのこと。ウィリアムも恐らくそうであろう。70歳を超えた老体。クビにはなりたくない。仕事を減らされたことで自分の存在意義が揺らぐ。それに憤りを感じているのだ。そして、自分がつまづいた問題の原因を自分ではなく環境に転嫁させようとするのである。
カズオ・イシグロは『わたしを離さないで』もそうだが、社会の中での自分の役割を突き詰めた作品を多く手がけているように見える。最近、『わたしたちが孤児だったころ』を読んだ。本作は、上海で親が失踪し孤児となってしまった主人公がイギリスで探偵の修行を積み、親失踪の真相を求め舞い戻ってくる話。上海時代に、彼は上海の人としてのアイデンティティを確立している。そんな彼の鏡像として日本人のアキラが登場する。彼もまた上海の人としてのアイデンティティがあるのだが、都合の良い時だけ日本の良さを持ち出す。ここに主人公が腹を立てる。また、『充たされざる者』もカフカ的不条理の世界に巻き込まれるピアニストを通じて自分と社会の関係性を紡ぎ出す物語とのこと。
これらを踏まえると、カズオ・イシグロが黒澤明『生きる』リメイクの脚本に抜擢されたことは不思議ではないと言えよう。
※映画.comより画像引用