『フォーエヴァー・モーツアルト』Je pense, donc je ne suis pas

フォーエヴァー・モーツアルト(1996)
FOR EVER MOZART

監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:マドレーヌ・アサス、ヴィッキー・メシカ、フレデリック・ピエロ、ガーリア・ラクロワetc

評価:70点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

菊川にできた映画館Strangerでゴダール映画『フォーエヴァー・モーツアルト』を観てきました。

『フォーエヴァー・モーツアルト』あらすじ

映画監督ヴィッキー・ヴィタリス(ヴィッキー・メシカ)は、マルローの『希望』を舞台化する『希求』の俳優オーディション中、男爵と呼ばれるプロデューサーのフェリックス(ミシェル・フランチーニ)に「宿命のボレロ」という映画の監督を頼まれる。哲学教師で失業中の娘カミーユ(マドレーヌ・アサス)は、戦火のサラエヴォにマリヴォーの戯曲を上演しにいくことを思いたつ。

映画.comより引用

Je pense, donc je ne suis pas

本作は『女は女である』にてアンナ・カリーナに引用させていたデカルトの言葉「我思う、ゆえに我あり」を掘り下げる内容となっている。

オーディションで多数の人がセリフを読み上げるが、数語話すや否や「ダメだ」と拒絶する製作陣。本作は映画監督と役者双方の観点から「我思う、ゆえに我あり」における「我とは何か?」について問う。

役者は、監督の指示により何度も「Oui」と語る。何テイクも重ねる中で、自分と物語の中の自分の境界線がなくなっていく。それはストレスや不安を抱くことでもあり、女優は発狂する。しかしながら、やがて自分だけの「Oui」を見出していく。

一方で、監督は映画撮影というシステムの中で自問自答する。監督は物語に干渉するなと言われ、妥協して映画を撮るのか、あるいは決定的瞬間を捉えるまで待つのか苦悩する。女優と監督が対立する。400以上もリテイクしていくうちに前者は「我」を見つけ、後者は「我」を見失っていく。この構図は興味深いものがある。そして、監督はリテイクはしたけれども、妥協が混ざった映画に対し幻滅する。それを『ターミネーター4』の誘惑に負け映画館から去っていく人で表現している。この描写が今観ると強烈で『ターミネーター4』は後に実際に映画化されている。大衆娯楽映画に対するコンプレックスをゴダールが全面的に出してきたシーンと言えよう。

さて、本作ではゴダール映画として珍しい程の爆破アクションがある。『パッション』では執拗に、車で人を轢こうとする描写があったが、本作では役者の至近距離で爆破を展開するのだ。

至近距離で爆破を起こすことで、俳優から素の演技を引き出せる。「我思う、ゆえに我あり」に対するゴダールの答えとして「我思う前に、我を現出させる方法としての爆破」が用意されてたと観ることができる。

そして映画撮影において、我思うことは、一定の領域から逸脱することができず凡庸な「我がない映画」を作ることに繋がると結論づけていると言えよう。

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※MUBIより画像引用