ドヴラートフ レニングラードの作家たち(2018)
Dovlatov
監督:アレクセイ・ゲルマン・ジュニア
出演:ミラン・マリック、ダニーラ・コズロフスキー、スヴェトラーナ・コドチェンコワetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。第68回ベルリン国際映画祭で『神々のたそがれ』監督の息子であるアレクセイ・ゲルマン・ジュニアが小説家セルゲイ・ドヴラートフについて描いた伝記映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』が芸術貢献賞を受賞した。そんな作品がようやく日本公開されたのだが、口を揃えて文学的知識がないとキツいと嘆いている。恐らくこの手の作品は家で観ても集中力が持たないだろうと思い、ご無沙汰ンタンゴ、久しぶりに《あつぎのえいがかんkiki》で観てきました。
『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』あらすじ
現代ロシアの伝説的作家セルゲイ・ドブラートフの激動の半生を描き、第68回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞した伝記ドラマ。1971年、ソビエト・レニングラード。言論に自由の風が吹いた“雪解け”の時代を経て、社会には再び抑圧的な“凍てつき”の空気が満ち始めていた。ジャーナリストとして働きながら文筆活動に勤しむドブラートフの6日間を切り取り、後にノーベル賞を受賞する詩人ヨシフ・ブロツキーら若き芸術家・活動家たちのひたむきな生を描き出す。セルビア人俳優ミラン・マリッチが主演を務め、「ヴァンパイア・アカデミー」のダニーラ・コズロフスキー、「ウルヴァリン:SAMURAI」のスベトラーナ・コドチェンコワ、「裁かれるは善人のみ」のエレナ・リャドワが共演。「神々のたそがれ」の巨匠アレクセイ・ゲルマンを父に持つアレクセイ・ゲルマン・Jr.がメガホンをとった。
※映画.comより引用
存在のない者の嘲笑と踠き
1970年代初頭レニングラード。物書きは作家協会に入らないと、新聞の軽い記事すら書けない時代。セルゲイ・ドヴラートフは最高指導者ブレジネフの夢を見、行き場のない閉塞感に悶々としていた。そんな彼をカメラは長回しで追う。カメラは通りの向こうに小さく写る犬を連れた彼を捉えるが、彼の声は大きく観客に伝わる。それは彼が自分自身の虚無を客観的に観ているようだ。
彼の作家としての活動はなかなか芽が出ない。まるで存在しないように思えてくる。そんな彼の閉塞感からくるクズさ、屈折したユーモアを重厚に描いている。確かに、文学知識やロシア語の響きによるユーモアが多くとっつきにくい作品であるが、ドヴラートフの独りよがりな破壊的ユーモアは今のTwitterを取り巻く閉塞感に通じるものがあり興味深い。また、他者を拒絶しながら自分の存在を刻み込もうと他者に依存する描写が丁寧に描けている。それがより一層物書きとしてのプライドの痛々しさを浮き彫りにさせる。
例えば、バスでおじさんにシオニストがうんたらかんたらと絡まれるシーンがある。ドヴラートフはсионистとかけてимпрессионист(印象派)と答え、「えっ?」と困らせる。その反応に満足感を得た彼は更にでしゃばり、аннотация(抽象派)と全然韻を踏んでいない言葉を重ねる。おじさんは「えっ?」と同様の反応をするが、もうそこには言葉遊びによるマウントがもたらすニヒルなユーモアは瓦解してしまっている。
また、別の場面。彼が映画の撮影現場に赴くところ。19世紀ソ連のアーティストに纏わる映画の現場らしくドストエフスキーやプシーキン役の人がいる。その中で、「じゃあ俺はカフカだ。フランス人の」というのだが、誰も相手にしない。それによって「こいつらはわかってない」と見下す。何故ならばフランツ・カフカはチェコ出身の作家だからだ。そして、ようやく得たジャーナリストとしての仕事も、単に褒めれば仕事は増えるのだが、それに反発していき、それによって業界から総スカンを食らうのだ。
「何者」でもない彼は、時に警察になりすまし、発禁書物であるナブコフの『ロリータ』購入者のリストを出せと街の本売りに迫ったり、「仕事は何をされているの?」という問いに「気を狂わすことが仕事だ」と言って虚無に虚無を重ねていくのです。アーネスト・ヘミングウェイのように世界を自由に飛び回り自分の文章を極めたいというある種のモラトリアムに取り憑かれ、行く先々でピニャコラーダが飲みたいと言い、「キウイ」の発音を間違えれば、「こっちの方が詩的だ、《キウイ》は俗っぽい。」と吐き捨てたりする。
そんな彼のドッペルゲンガー的存在が本作を取り巻く、存在のない者の屈折した叫びを補強しており、自分をサリエリ(モーツァルトの横で自分の凡人さに苦しめられた人物)と例えるダヴィッドや地下労働施設で語ることを諦め始めた人がドヴラートフの苦悩を肉付けしていくのだ。
確かに、本作は家で観たら集中力が切れてしまいそうな圧倒的情報量と高度な皮肉で包まれた作品だ。しかし、この映画を取り巻くあるベクトル以外を排除する息苦しさは、日本の映画ライター業界にも通じるものがあり、ドヴラートフの反骨精神は厄介ながらも魅力的に思えました。
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