【ゴーモン特集】『私たちは一緒に年を取ることはない』歪さが『未来のミライ』の構図を解き明かす

私たちは一緒に年を取ることはない(1972)
旧邦題:一緒に老けるわけじゃない
原題:Nous ne vieillirons pas ensemble

監督:モーリス・ピアラ
出演:マルレーヌ・ジョベール、ジャン・ヤンヌ、
クリスティーヌ・ファブレガetc

評価80点

今回のゴーモン特集最大の注目作はモーリス・ピアラの『Nous ne vieillirons pas ensemble』だ。えっ、ピアラそんな映画撮っていたっけ?実は日本語版Wikipediaには載っていないステルス作品である。

今まで、アンスティチュフランセでは何度か上映されていたらしいが、英語字幕上映だった。

今回、初めて日本語字幕がついたのだ!故に朝の8:30から並んでチケットを勝ち取った。果たしてどんな作品なのだろうか?

『私たちは一緒に年を取ることはない』あらすじ

モーリス・ピアラがフランソワーズ=ミシュリーヌと結婚しながらも、カトリーヌ=コレットと1960~1966年にかけて不倫していた話をベースに作った作品。ジャン:映画監督。スランプに陥っていてなかなか映画を撮ることができない。溜まりに溜まった鬱憤を暴力という形で愛人カトリーヌにぶつけている。カトリーヌは何度もジャンの元を離れようとするが、引力によって彼の元へ戻ってしまう。男と女の不毛な攻防が長い時間かけて繰り広げられるのであった…

今のホン・サンス映画だよね?

さて、本作を観る45分前、私と映画仲間は不安に苛まれた。『ルル

』で消化不良を起こしていたからだ。しかも事前情報で、『ルル』と本作が似ていることを知っていたからだ。そして観ると、前半30分、『ルル』そのまんまで青ざめた。また2時間付き合うのかと。

しかし、これが段々面白くなる、ボルテージが上がってくる。

ピアラの分身である主人公は、映画が撮れず、パリでくすぶっていた。そんな彼は愛人に暴力を振るい心の鬱憤を炸裂させていた。孤独なのに、顔は常にポーカーフェイス。「お前なんかいなくてもいい」というのに、彼女に依存しきっていて、執拗に会おうとする。駅でバイバイしたのに、彼女の行き先まで車を走らせ待ち伏せをする。「もう暴力振るわないから」と悲しそうな顔をした次の場面では思いっきりDVを働く。「俺が怖いか?」と壁ドンをして迫る(怖すぎる)。あまりの酷さに、爆笑だ。

と同時に、もはやストックホルム症候群に陥り、DVマシーンの男に縛られてないとソワソワしてしまう愛人のもがきというのも描かれる。DVマシーンの引力から逃れられない哀しさ、モーリス・ピアラの意図せぬところで見事なストックホルム症候群描写が完成しており、私の心を鷲掴みにした。

この面白さ、まさに最近のホン・サンス映画そのものである。ホン・サンス監督は、キム・ミニと不倫しており、彼女を主演に二人の思い出を『それから

』『夜の浜辺でひとり

』映画に収めて行くスタイルをとっている。ポリコレ棒で支配された現代。ジェームズ・ガンが大昔のツイートによる不祥事を掘り起こされて、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.3』の監督を降板させられてしまうほどの狂気な世界。ホン・サンスは、そんなポリコレ棒など御構い無しにセクハラ映画を撮り続けている。そのゲスさとぶっ飛び具合が映画の魅力を引き立てているのだが、モーリス・ピアラもまさにこの系譜だ。

彼は、本作を撮るにあたって徹底的にホンモノに拘った。実際に、カトリーヌ=コレットと泊まったホテルや、ピアラの自宅をロケ地として起用(ミシュリーヌの両親の家もロケ地にしようとしたのだが、流石にこれは彼女の両親に止められ叶わず。同じ村の似たような家を使用した)。そして、ジャンの妻役にはピアラの妻フランソワーズ=ミシュリーヌを配役しようとした(これは、ジャン・ヤンヌに止められた)。

『未来のミライ』の違和感の正体が発覚!

上映後、シネマ テーク・フランセーズ招聘研究員の須藤健太郎によるトークショーが行われた。そこでは、本作の翌年に公開されたジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』との比較が語られていて、これがまた面白かった。どちらも、思うように映画が撮れない自分と女の関係を描いたプライベートムービーだ。
『ママと娼婦』では切り返しを多用し、切り返しが人間関係の熱気を表現しているのに対し、『私たちは一緒に年をとることはない』では、関係が切れる時に切り返しが使われる。だから約100ショットしかない(通常は2時間で700ショットくらい。ちなみに『ニーチェの馬』では2時間半約30カットだ)。切り返しを避けるために、やたらと車の中でのショットが多くなっている。車の中にカメラを向けることで、一つのフレームで2人を捉えることができるのだ。また、本作では、映画にとって必要不可欠な《過程》が排除されている。ジャンとカトリーヌが別れる前後だけを抽出する。アクションだけを抽出しているのだ。例えば、カトリーヌがジャンのストーカーに嫌気が差して、「もう出て行く!もう会わない!」と言い車から去る。その次のシーンでは、カトリーヌがニコニコしながらジャンの車に乗り込むのだ。その間に何があったのかは語られない。このようにアクションとアクションが無造作に並べられているのだ。つまり、本来、カトリーヌは何故ジャンと仲直りしたのかを描くべきところ、《過程》を排除していくのだ。
この話を聞いた時、ブンブンはある映画について腑に落ちた。それが『未来のミライ

』だ。現在、あまりに前衛的な作品故、Twitterで酷評祭となっている細田守最新作。あの映画の歪さは、まさしく《過程の皆無》にある。

何故、未来のミライは何故くんちゃんの前に現れたのか?何故、くんちゃんはア◯ルに棒(=尻尾)をぶっ差してエクスタシー昇天したのか?全ての挿話が、前触れもなく現れては消えて行く。全てのエピソードが、まともに回収されることなく、画面から通り過ぎて行くのだ。映画を観に行く人のほとんどは、モーリス・ピアラなんて観ていないし、知らない。しかも、本作は夏休みむけビッグバジェット枠の作品だ。故に、《線の物語》を期待して映画館へ向かう。妹に愛を奪われたくんちゃんが、未来から事情を抱えた妹と開講する。彼女の事情を知り、共に問題を解決することで、成長する…こういう物語を期待して映画館へ行くのだ。しかし、実際に展開されるのは《点の物語》。起承転結の《転》を星のように散りばめて終わってしまうのだ。

点と点、転と転の行間は観客が自由にイマジネーションを膨らませる必要がある。その行間にこそ旨味があるのだ。

まさか、モーリス・ピアラから『未来のミライ』を読み解くヒントを得るとは思いもよりませんでした。ってことで、『私たちは一緒に年を取ることはない』、2時間以上前から並んでチケットを取った甲斐がありました。大満足のゴーモン特集でした。

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