ザ・ガール・イン・ザ・スノウ(2025)
L’engloutie
監督:ルイーズ・エモン
出演:ガラテア・ベルージ、マチュー・ルッチ、サミュエル・キルヒャー、オスカー・ポンズetc
評価:70点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
日仏学院で行われている第7回映画批評月間にて観逃していた『ザ・ガール・イン・ザ・スノウ』が上映されていたので観にいった。変な映画だと噂は聞いていたが、なかなかのトンデモ映画であった。
『ザ・ガール・イン・ザ・スノウ』あらすじ
1899年.雪深い山奥の村に、若い女性エメーが教師として着任する。未開に近い村で、エメーは地元の前時代的な風習に抵抗しながら子どもたちに外の世界を教える一方、自らの欲望の高まりを自覚する。やがて、村の青年が失踪する…。
※Filmarksより引用
デカルト「人間論」に興奮する女における解放とは?
フランスの白川郷のような場所に女教師が赴任してくる。彼女はデカルトの「人間論」を読んでいるのだがどうも様子がおかしい。欲情しているのだ。しかし、村の中では純粋無垢で真っすぐな瞳をもった先生として振る舞っている。本作は『田舎司祭の日記』同様に、村人たちとの相性の悪さに心身病んでいく者の目線から描かれる。村人たちは制御不能でありながらも村といった制御機構の中で社会が育まれている。だから風呂キャンセルはもちろん、春先まで墓が作れないので子どもたちの声が聴けるようにと女教師の家の屋根に仮設の墓を作ろうともなんら疑問は抱かない。自然のものとして扱われる。本作が興味深いのはコペルニクス的転回でもって「自然」を描こうとしている点にある。
女性教師エメーは人間の文明的活動として文字を教え、紙に思索を書くことで自由になれると信じている。しかし、村人からすれば物語を閉じ込めてしまう悪魔的行動として捉えられる。ハイデガーは「技術への問い」の中で人間は自然をエネルギーとして蓄える仕組みを作ってきた歴史があるとし、それが産業革命以降、エネルギー化の対象を人間へ向いてしまったと語っている。まさしく、エメーがやろうとしていることは教育でもって都会からしたら自然である制御不能な様を人工的に制御してしまおうとする活動のように思える。
映画では度々、アルジェリアへの移動について言及されるが、それはフランスがアルジェリアを人工的にコントロールしようとした歴史と繋がっている。本作は1899年が舞台であり、本作の結末は、この映画から観て未来にあたるアルジェリア戦争の結末に向けられたものと捉えるのが自然であろう。
ちなみに、デカルト「人間論」を軽く調べてみた上で『ザ・ガール・イン・ザ・スノウ』と向き合うと、人間と動物を区別している点と人間は精神と身体が結びついたものであるといった観点が映画の軸となっているように思える。要は都会の者からして田舎社会は動物のように区別されてしまい、人間にするために上から目線で教育を行う。エメーの表の純潔な顔と裏の欲情的な顔が精神と肉体との結びつき、つまり人間の特徴を示しているのだが、村人たちのしっぺ返しでもって村人たちにも精神があり、アクションといった肉体的結びつきでもって人間であることが示される。精神と肉体の結びつきが曖昧な非人間的、あるいは自然現象として雪崩を配置した構造と観ることができるだろう。
こうは語ってみたものの、絶頂に達する度に雪崩が起きるってトマス・ピンチョンかよと思わず吹き出してしまうビザールな官能映画であった。










