君のクイズ(2026)
監督:吉野耕平
出演:中村倫也、神木隆之介、森川葵、水沢林太郎、福澤重文、ムロツヨシetc
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
第76回日本推理作家協会賞を受賞した小川哲の同名小説を映画化した『君のクイズ』が公開された。「問題を1文字も読まずになぜ正解できたのか?」というシンプルな問い。ロバート・レッドフォード「クイズ・ショウ」や1984年に海外のゲーム番組「Press Your Luck」の脆弱性を突いたニュースを彷彿とさせる内容に惹かれて観た。確かに本作は通俗なつくりであり、ポール・トーマス・アンダーソン『マグノリア』のような長回しによる緊迫感みたいなことはしていないのだが、『スラムドッグ$ミリオネア』を応用させた手法、何よりも原作の問題を踏襲しながらも大胆に映画用に書き換えた脚色の妙が素晴らしかった。映画を観た後に原作と「言語化するための小説思考」を読むと、原作の肩透かしなオチを改善しつつ、小川哲の理念や本作で問われているものを深化させた内容に感動を覚えたのであった。この記事では、原作を含めネタバレ個所に触れながら、いかに本作が超絶技巧な作品だったかについて書いていく。
『君のクイズ』あらすじ
直木賞受賞作家・小川哲が2022年に発表しベストセラーとなったミステリー小説「君のクイズ」を映画化。
賞金1000万円をかけた生放送のクイズ番組「Q-1グランプリ」の決勝戦。お茶の間が注目するなか、「クイズ界の絶対王者」こと三島玲央と、「世界を頭の中に保存した男」といわれる本庄絆は、ともに優勝への王手をかける。そして迎えた最終問題の早押しクイズで、本庄はまだ問題が1文字も読まれていないにも関わらず回答ボタンを押す。どよめく会場をよそに、なんと本庄は正解を言い当て優勝を果たす。あり得ない出来事に、三島は困惑を隠しきれない。本庄はなぜ不可能とも思える「ゼロ文字正答」を成し得たのか。三島はその謎を解明すべく独自に調査するが……。
豊富なクイズ知識と論理的思考をあわせもつ主人公・三島玲央を中村倫也、三島と対峙する謎多き天才クイズプレイヤー・本庄絆を神木隆之介、番組の総合演出を手がけ、盛り上げるためなら手段を選ばない坂田泰彦をムロツヨシが演じる。「ハケンアニメ!」「沈黙の艦隊」シリーズの吉野耕平監督がメガホンをとり、クイズプレイヤーの脳内で繰り広げられる思考の迷宮を、VFXを駆使してスタイリッシュに表現する。
クイズとは何か?
小川哲「君のクイズ」は読み始めたら手が止まらない程のテンポの良さで次々と謎を検証していく内容であり、映画化されることは必然だったように思えるが、そのままでは全く映画映えしない内容であった。というのも、原作は基本的に独り相撲であり、主人公の三島玲央が「Q-1グランプリ」の決勝戦を独りでひたすら検証していく内容だったからだ。確かに回想スタイルなので映画自体は作れるが、回想/現実の単調な反復横跳びになってしまうリスクがあった。そこで映画版は、検証番組内で謎を解き明かす構造へと大胆に改変している。そして我々観客が思っていることを三島だけでなくガヤに代弁させるのだ。この手の作品は原作もそうだが、ほとんどを説明台詞に頼っている。アート映画のように間が映画を語るようなことはあまりしないし、エンタメ映画である以上、説明するなら徹底して行う必要がある。だが、三島にすべてを語らせたら小説ならまだしも映画だと退屈に感じてしまうであろう。だから変更した。この大胆さに感銘を受けた。
そしてさらに重要なのは、個別の問題に関する重きを変えている点にある。
原作ではトルストイの「アンナ・カレーニナ」に力点が置かれていた。「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている」といった書き出しで始まる「アンナ・カレーニナ」にある程度ページを割き、三島の人生に影響を与えていることを強調している。これは本庄の「ゼロ文字正答」を解き明かすためのヒントでもあり誤読のフック、要は人生はそう簡単な物語になっていない様へ繋がって来るのだ。
しかし、映画でそれをやろうとすると、そもそも現代の日本人のどれだけが「アンナ・カレーニナ」の物語を薄ら程度でも把握しているのかといった問題にぶち当たる。文章であれば原作のように説明ができるのだが、音の場合流れてしまう。実際に映画版では本庄が文学を引用しながらコメントするもMCに伝わらないといったシーンを挿入している。代わりにここではゲーム作品「UNDERTALE」へ力点を置き換えることで「アンナ・カレーニナ」と同相の扱いとしている。『レディ・プレイヤー1』『アベンジャーズ/エンドゲーム』以降、2020年代の映画はメインカルチャーとサブカルチャーの境界がなくなったように思える。テレビはあまり観られなくなり、共通の話題が少なくなった。会社の自己紹介でも、昔は趣味といえば読書や映画だったものがゲームやアニメ、推し活といったかつてはバカにされたであろう趣味が社会的地位を得て覇権となった。日本では、聖書やシェイクスピアを引用するようにONE PIECE、ちいかわの物語が日常会話で語られている。ゴダールの作品が映画だけでなく政治や文学、美術史をサンプリングしハイコンテクストになっているのと同様に『超かぐや姫!』は配信者文化、ネットミームやマリオの映画が任天堂史を編み込んで難解になっている。そんな時代に大衆映画は「アンナ・カレーニナ」以上に分かりやすい物語構造を選ぶ必要があるのだが、ここで「UNDERTALE」が名乗りを挙げたのだ。
面白いことに映画版に登場するクイズの多くはほとんどそのまま使われている。しかし、「UNDERTALE」だけは大幅に問題内容を書き換えていた。原作では、「モンスターたちの住む地底世界を舞台に、地上へ帰る『ニンゲン』の子どもとなって冒険をする、トビー・フォックスが開発し、日本でも大ヒットしたインディーズゲームは何でしょう?」となっていた。
一方、映画では「『誰も死ななくていいやさしいRPG』として知られている……」で始まっている。
「UNDERTALE」は『MOTHER2』と東方Projectの弾幕系シューティングを足し合わせたようなRPGゲームなのだが、ゲームの構成が歴史に残るほどユニークな一本となっている。モンスターの住む地底世界に堕ちた主人公が地上へ帰ろうとする。その道中で敵とエンカウントするのだが、通常のRPGとは異なり「戦わない」選択ができる。これは一般的なRPGにおける「逃げる」とは異なるコマンドとして用意されている。2周目のプレイでは、主人公の選択が大きく物語に影響を与える。徹底的に敵を倒していった場合、敵を1体も倒さなかった場合で異なるエンディングを向かえるのだ。そして、本作では「サンズ」と呼ばれる骸骨のキャラクターが登場し、道中で主人公に話しかけたり、最後に審判を下すのだが、その際に「ゲームプレイヤー」を意識した発言をすることがある。ゲーム内の世界だけでなく、メタ的なレベルにまで踏み込んだゲーム設定は多くの人を熱狂させて、2010年代を代表とするゲームとなった。
そんな本作をプッシュすることで、原作のオチの弱さをカバーし、小川哲の思想を深堀りすることに成功している。クイズは一見すると数語しか読まれていないのに正答する魔法使いたちの曲芸に思えるが、実際には人生同様に選択の連続である。人間が選択している以上、その選択には理由があるわけである。三島は「UNDERTALE」を頭の片隅に謎を解いていく。映画のイメージとしては主人公を操作している場面が挿入されるのだが、実際は「サンズ」のように「クイズ」が構成する世界を疑っている。本庄もまた、主人公でありサンズのような重ね合わせの存在として描かれ、世界を脱構築していくのだ。
小川哲「言語化するための小説思考」によれば、小説を書くのに重要なのは《答え》ではなく《問い》とのこと。そして、知らない世界について書く際に重要なのは事象を抽象化し別の事象へとズラすこと。つまり圏論における関手のようなことを小説で行っているのである。そして、なぜ人々は考察を求めるのかといった際に、問いを見つけ自分の言葉で言語化することは難しく、誰かが言語化を渇望する。これはなぜ、フィクションが人間にとって必要なのかを説明するのにも役に立つ。ビジネス書を読むとあたりまえのことしか書かれておらず退屈に感じることが多いだろう。抽象的過ぎるからだ。しかし、フィクションという具象を介することで、自分の人生との接点が見出され腑に落ちる。これを映画や小説で行う際に、それとは異なる領域で語った方が伝わりやすい。小川哲はここで「クイズ」を用いた。クイズはただ知識量を提示するものではない。クイズに答えるということは自分の人生との接点を見つけることである。それは膨大な選択肢の中から選択し続ける人生に対して位相をズラした存在としてある。故に「ゼロ文字正答」をした本庄にも人生がある。その人生を同じクイズプレイヤーとして解き明かす。このプロセスを通じて自分の人生の死角が見えてくるのだ。
原作では本庄がYouTubeチャンネルを開設し新しい人生を始めるといった、あまりにも安易で小さくまとまったオチとなっていたのだが、映画版はそれを解消し、先述のような位相をズラした人生としてのクイズといった形を捉えて終わっている。この演出に驚かされたのであった。吉野耕平監督恐るべし。










