屋根裏のラジャー(2023)
The Imaginary
監督:百瀬義行
出演:寺田心、鈴木梨央、安藤サクラ、仲里依紗、杉咲花、山田孝之、高畑淳子、寺尾聰、イッセー尾形etc
評価:65点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
スタジオポノック新作の『屋根裏のラジャー』が予告編の雰囲気から面白い香りを感じたので観た。これがかなり歪な作品だったのでネタバレありで語っていく。
『屋根裏のラジャー』あらすじ
「メアリと魔女の花」のスタジオポノックが、イギリスの作家で詩人のA・F・ハロルドによる小説「ぼくが消えないうちに(The Imaginary)」を映画化した長編アニメーション。少女の想像によって生まれたイマジナリーフレンドを主人公に、現実と想像が交錯する世界で起こる冒険を描いたファンタジーアドベンチャー。
少女アマンダの想像が生み出した少年ラジャーは、彼女以外の人間には見えない「想像の友だち(イマジナリ)」だ。ラジャーは屋根裏部屋でアマンダと一緒に想像の世界に飛び込み、喜びにあふれた毎日を送っていた。しかし、イマジナリには人間に忘れられると消えていくという、避けられない運命があった。アマンダに忘れられれば、世界中の誰からもその姿は見えなくなり、消えていく。そんな自分の運命に戸惑いながらも、一縷の望みを抱いて歩み始めたラジャーは、かつて人間に忘れさられた想像たちが身を寄せ合って暮らす「イマジナリの町」にたどり着く。そこでラジャーと仲間たちは、彼らの大切な人や家族の未来を懸けた冒険を繰り広げる。
監督は、高畑勲作品の「火垂るの墓」から「かぐや姫の物語」までの全作品に携わるなどスタジオジブリ作品で活躍したアニメーターで、スタジオポノックのオムニバス「ちいさな英雄 カニとタマゴと透明人間」にも参加した百瀬義行。ラジャーの声は、アニメ映画初参加の寺田心が担当。そのほかアマンダ役の鈴木梨央、アマンダの母リジー役の安藤サクラをはじめ、イッセー尾形、杉咲花、仲里依紗、山田孝之、高畑淳子、寺尾聰ら豪華俳優陣がキャストとして参加した。
イマジナリーフレンド、実存の危機に瀕する
イマジナリーフレンドとは、社会と折り合いがつかない子どもがモヤモヤを吐き出す避雷針として立てるものである。本作は、少女アマンダが生み出したイマジナリーフレンド・ラジャーとの関係性を描いた作品である。ある種、『仮面/ペルソナ』的な物語になるのかと思いきや、開始30分ぐらいでアマンダが退場してしまい、ラジャーの物語となる。イマジナリーフレンドであるラジャーが、交通事故に遭い生死を彷徨うアマンダの記憶から消えることで、自分の存在が消滅するかもしれない実存の危機に怯えながら冒険する物語へと展開していくのだ。思わぬ急ハンドル、そして「イマジナリーフレンドは扉を開けることができない」「イマジナリーフレンドにとって忘れられると奪われるの意味は大きく異なる」などといった特殊なルールが次から次へと押し寄せるので困惑することとなる。
正直なところ、本作自体が様々なルールを制御できていないため、尖っていて面白いところが勿体無く感じることが多かった。たとえば、イギリスが舞台の作品にもかかわらず、街中描写に日本語が混じる場面がある。たとえば、アマンダが自宅兼本屋の家に着くと、窓に「閉店セール」と日本語で書かれている。この描写はピクサー/ディズニーアニメで散見される、子どものためのグローカル表現と認識するより、別の見方をすると興味深いものに変わる。人々は、日常生活する中で、膨大な文字情報を視界に入れる。その中で重要な文字や文章を取捨選択して認識している。それを踏まえた上で、この映画の日本語表記に着目すると、登場人物が凝視したものを強調する役割を果たしていると見ることができるのだ。実際に、アマンダがバスの中で友だちが持っていた絵本に着目する場面では「かいじゅう」と日本語表記がされており、彼女の関心がそこに向いていることが強調されている。しかし、このように解釈した際に、映画は規則に則ってこのギミックを運用できていないことが分かる。
明らかに、誰の眼差しも向けられていないところが日本語になっていたり、凝視しているはずの部分が英語だったりするからだ。しかも、あれだけ意味ありげに「閉店セール」を日本語にしていたにもかかわらず、物語にほとんど関係がないといった問題も抱えている。
一方で、良かった部分もある。それはラジャーがアマンダの友人と同一化する。つまり女体化する場面だろう。イマジナリーフレンドが現実と向き合うための避雷針として機能しているとする。男の子を仮想的に立てていた状況から女の子になりアマンダへと近づいていく。これは現実から離した状況から現実へと近づいていく運動と捉えることができる。アマンダは父を失った現実を直視できていない。父のような存在を求めてラジャーを立てた。映画としてはフワッとした描き方となっているが、現実を少し受け入れ母の元に歩み寄る着地となっていることを踏まえると、ラジャーが女になりアマンダに近づくことは、アマンダが自分自身と向き合うことと同義であるといえる。まさしく『仮面/ペルソナ』的な融合がこの女体化描写にあるといえよう。
全体的に空中分解気味な作品であったが、チャレンジ精神が面白い作品であった。
P.S.ヴェネツィア描写における教会のタンパンの描き込みが緻密で世界遺産好きとして熱くなった。
※映画.comより画像引用