【考察】『アステロイド・シティ』フレームの外側の傍観者

アステロイド・シティ(2023)
Asteroid City

監督:ウェス・アンダーソン
出演:スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス、マーゴット・ロビー、ジェフリー・ライト、ブライアン・クランストン、ティルダ・スウィントンetc

評価:85点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

ウェス・アンダーソン新作『アステロイド・シティ』を観た。最近の彼の作品は、空間造形に執着したものが多く、内容自体はよくわからないイメージがある。ただ、彼の画郭やジャンルを横断させていくスタイルは動画を作るようになった今、参考になるものがある。結論からいえば、『アステロイド・シティ』で使われる技法はずんだもん動画や配信の時のギミックに組み込みたいものが多く楽しかった。一方で、ウェス・アンダーソン作品の中では最も難解だったので一旦冷静に分析してみるとする。

『アステロイド・シティ』あらすじ

「グランド・ブダペスト・ホテル」のウェス・アンダーソン監督が、砂漠の街に宇宙人が到来したことから巻き起こる大騒動を独特の世界観で描いたコメディ。

1955年、アメリカ南西部の砂漠の街アステロイド・シティ。隕石が落下して出来た巨大なクレーターが観光名所となっているこの街に、科学賞を受賞した5人の少年少女とその家族が招待される。子どもたちに母親が亡くなったことを言い出せない父親、映画スターのシングルマザーなど、参加者たちがそれぞれの思いを抱える中で授賞式が始まるが、突如として宇宙人が現れ人々は大混乱に陥ってしまう。街は封鎖され、軍が宇宙人到来の事実を隠蔽する中、子どもたちは外部へ情報を伝えようとするが……。

キャストにはジェイソン・シュワルツマン、エドワード・ノートンらアンダーソン監督作の常連俳優陣に加え、スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス、マーゴット・ロビーらが参加。2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。

映画.comより引用

フレームの外側の傍観者

本作は「アステロイド・シティ」という劇の世界(カラー)とそのメイキング(白黒)の2パートから分かれている。前者は映画のフォーマットで撮られているのだが、後者は「演劇」であることを強調する。中盤では、カラーの世界から楽屋に移ることで、双方が地続き、つまり「演劇」であることが分かってくる。そんな奇妙な構成の中心にある物語は、隕石の落下で有名な砂漠の町に子どもたちがやってくるも宇宙人が現れたせいで隔離されてしまうといったもの。明らかにコロナ禍のメタファーではあるのだが、ウェス・アンダーソンの理論がよく分からず、「MOTHER2」が実写化したような世界を眺めているうちに映画は終わってしまう。これはなんだろうか。

まず、視覚的快感の面から語ると、今回はカメラのパンのさせ方が異様である。冒頭。アステロイド・シティを360度パンで魅せていくのだが、一歩引いて右に向き、ダイナーを捉えてから横移動し、モーテルを移す。そして、中途半端な道路、隕石落下地点などを見せ、340度ぐらいパンしたところで戻る。これは、これから舞台となる場所を全て提示する場面ではあるが、複雑な長回しとなっていて面白い。映画はこのような独特な移動の中に人を配置し、物語を進めていく。そこへ、もう一つ特徴的なものがある。「窓」の存在だ。登場人物を窓というフレームに押し込めるといった場面が数分に一回出てくるのである。この「窓」の演出から観てみると、複雑さを読み解く糸口が見えてくる。重要な登場人物にカメラマンがいる。彼は、無断でダイナーの女を撮るような人物である。宇宙人に対してもパシャリと決定的な瞬間を撮る。写真を撮る行為をフレームに収めるに置換し、拡大させたのが「窓」の役割だろう。実際に、彼は向かいの部屋の女の翳りに気をつかうことなく眼差しを向けている。やつれた彼女が薬漬けになっていても、彼女の領域には踏み込まないのだ。この、眼差しを向けるも領域に踏み込まない視点を強調したのが白黒パートにおける舞台であろう。基本的に観客は舞台内の物語自体に干渉することはない。映画ではなく演劇を採用したのは、上記の行為は映画鑑賞そのものであるので映画でやってしまってはこの理論が弱く映ってしまうからと言える。

それを踏まえて、本作は何を言わんとしているのかを考える。それは「事件」に対する傍観者と当事者の関係性であろう。冒頭、原爆が遠くで爆発しているが、他人事のように振る舞う。しかし、いざ宇宙人騒動が起こるとアステロイド・シティの住民たちは当事者となり狼狽える。だが、カメラマンはそれをチャンスとばかりに撮影を行う。当事者でありながらも傍観者であろうとするのだ。それが映画内の「窓」であったり、スパイスとしての二画面(アステロイド・シティ内と外側)で強調される。アステロイド・シティの物語が原爆も宇宙人も地続きで繋がっている。虚構のように見えるものも「現実」として繋がっている。これが演劇の舞台裏といったギミックでもって強調されるのだ。

映画は終盤に「目覚めたいのなら眠れ」と連呼する。これは、自分が当事者なのか傍観者なのかの線を意識するためには、自分の今いると思っている側の対岸を意識すべしと言いたいのだろう。なぜならば眠ることで目覚めることができるのだから。もし、自分が目覚めているのか、眠っているのか分からなければ、ここではもし目覚めていると自覚したいのであれば眠れと主張しているのであろう。

このように考えてみると、ポップアイコンのように使用される原爆描写は必要だったように思える。ポップアイコンとして使用される原爆像に『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』がある。これは冷戦化の不安によりパニックとなり虚構の中の原爆と現実とが見分けがつかなくなる場面がある。本作は事件が自分事になる話であったが、『アステロイド・シティ』は他人事になる話だと分類できそうだ。そしてこれはコロナ禍で異様な世界になったが、どこか現実離れして虚構のようにみえ他人事に思えてしまう心理状況を指し示しているといえよう。

P.S.ウェス・アンダーソンは映画というよりかはゲームを作った方が面白いと最近思う。本作は明らかに「MOTHER2」大好きだろうと感じる場面が多々あった。

※MUBIより画像引用