We’re All Going to the World’s Fair(2021)
監督:ジェーン・シェーンブルン
出演:テオ・アンソニー、アンナ・コブ、ホーリー・アン・フリンク、マイケル・ロジャースetc
評価:90点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
先日、2023年上半期映画ベスト配信でSailさんがベストに入れていた『We’re All Going to the World’s Fair』が私の専門領域の映画っぽかったので観た。これがある意味怖い作品であった。
『We’re All Going to the World’s Fair』あらすじ
Alone in her attic bedroom, teenager Casey becomes immersed in an online role-playing horror game, wherein she begins to document the changes that may or may not be happening to her.
訳:屋根裏部屋の寝室で一人きりになったティーンエイジャーのケイシーは、オンラインのロールプレイング・ホラーゲームに没頭し、そこで自分の身に起きているのかいないのかわからない変化を記録し始める。
異界の扉が開かれた
引きこもりだと思われるティーンエイジャー・ケイシーはインターネットにかじりつき、「World’s Fair Challenge」に励んでいる。これは自分の指の血をPCにつけて呪文”I want to go to World’s Fair”と唱えるものだ。ネット上にはそれにより異界へと引きずり込まれる動画がアップされている。当然ながらそれはCGで作られた、野良の作品であり胡散臭いのだが、孤独なケイシーはそれにのめり込むことで退屈な時間を紛らわしている。そんな彼女に、死神アイコンの男がコンタクトを取る。
まず、言わなきゃならないのが、私自身彼女のような生活をしていたことがあり精神が抉られたということだ。彼女は壁にASMR動画のようなものを投影したり、動画を流しっぱなしにしながら暗い部屋で寝るまで時間を潰しているのだが、私自身、前職でメンタルがやられていた時期にテレビに物述有栖さんやしぐれういさんのASMR動画を流しっぱなしにしながら寝ていたことがある。そして彼女の「動画の世界に行きたい(=どこか楽しい世界へ行きたい)」渇望は私も持っており、この作品を直視して観ることは自分の暗部を覗き込むような怖さがあった。
それを一旦横に置いても、動画なのか夢なのか曖昧な描写の中に、恐ろしい場面がいくつか存在する。例えば、主観で何もいない夜の街を歩いていると、いきなり盛えてくる。あの唐突さは、現実ではないようなものを見ているようで、しかもその盛り上がりの正体が掴めない得体の知れなさがあり怖かった。
物語構造面から掘り下げると、東浩紀が「観光客の哲学」で言及していた「タッチスクリーンの時代」における「観る/観られる」の関係を、主人公切り替えで表現している作品であることが分かる。最初は、異界へと行きたい!でもしょぼいVlogを撮ったところで何も変化が起きないケイシーの辛さに寄り添っている。しかし、中盤からは死神アイコンの実体に迫る。実体はおっさんである。『SNS-少女たちの10日間-』に出てきたセクハラ野郎に近いねっとりとしたアプローチで彼女の「World’s Fair Challenge」に物申すが、彼自身が孤独であり、なおかつ『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドがそのまま大人になってしまったかのようなピュアさ、いい歳こいて自意識まだBOYな感覚を持っていることが明らかとなる。彼からすれば、ディスプレイの先で起こっている彼女の奇行こそが異界であり、異界から異界に干渉することで自分の人生に変化を及ぼそうとしていることが分かるのだ。これはインターネットの発達により、遠く離れた場所でもインタラクティブなコミュニケーションができる時代において、ディスプレイの向こう側の世界への渇望が掻き立てられる状況を強調した作品といえる。スクリーン時代では、一方的に提示されたものを受け入れるしかなかった。しかし、YouTubeの配信もそうだが、近年では自分のコメントや音声通話によって、ディスプレイの向こう側に影響を与えることができる。それは退屈な「今」から抜け出せるかも知れないという期待を掻き立てる。「World’s Fair Challenge」自体、その欲望を掻き立てるコンテンツとして機能しているので、本作はメディア論を語る上で重要な作品であるといえよう。日本公開を期待したい。
※IMDbより画像引用