『ドン・ジュアン』役と魂の重ね合わせ

ドン・ジュアン(2022)
Don Juan

監督:セルジュ・ボゾン
出演:ヴィルジニー・エフィラ、タハール・ラヒム、アラン・シャンフォー、ダミアン・シャペル、ジェニー・ベスetc

評価:55点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

ユーロスペースで開催されている第4回映画批評月間でセルジュ・ボゾンの『ドン・ジュアン』が上映されるとのことだったので観て来た。初セルジュ・ボゾン映画だったのですが、想像以上のゴリゴリ理論系映画であった。

『ドン・ジュアン』あらすじ

2022年、ドン・ジュアンはもはやすべての女性を誘惑する男ではなく、自分を捨てた一人の女性に執着する男になっていた…。『ダゲレオタイプの女』のタハール・ラヒムが『めまい』のスコッティのように愛する女性のイメージに取り憑かれた男を演じるミュージカル。第75回カンヌ国際映画祭プレミア部門出品作品。「セルジュ・ボゾンは、彼の映画のいつもの奇抜さを軽減させ、それを細かい振り付けの身ぶりの中へと封じ込める。その結果、哀調を帯びたダンスのムーブメントを全編に渡り生み出し、出演者が愛を告白し合う歌声が裏切らない心からの美しさを醸し出している」

※チラシより引用

役と魂の重ね合わせ

女たらしのドン・ジュアンを演じる男は、女タラシではない。むしろ陰キャラである。しかし、演技になるとドン・ジュアンに化ける。そんな彼が舞台の外側、部屋にいるとヒロインが現れ演技レッスンをしてほしいと迫る。彼女は舞台上における魔性の女として振る舞う。しかし、この時の男はドン・ジュアンでないので彼女を拒絶する。後に、その反転が行われる。本作は舞台の外側で展開される、演技と素を分析することで役者論を語ろうとしているようにみえる。演劇は、人と人とのある種契約の下で「役」を存在するものとして受け入れる。だから女たらしのドン・ジュアンの振る舞いが成立する。しかし、契約がなければ文脈が共有されないので拒絶に繋がる。

では、両極端に役と魂の分離を描くが、実際はどうだろうか?

セルジュ・ボゾンはピアノを使った演出で役と魂の重なりを指摘する。ラウンジのおっさんがチラチラ男を見ながらピアノで弾き語りをするシーンを配置する。その後でヒロインが同様のパフォーマンスをする。画が彼女の指捌きを移さない。彼女は他者を見ず、歌に集中する。そして泣きながら情熱的に歌う。これは歌という演技の中から自分の魂が激る場面といえる。つまり、役と魂は重なりあっているのだ。

それを踏まえると、現実において誰しもがその場にあった役を演じている。舞台の外側でも、役者でなくても演劇が行われており、人と人とが契約を結ぶことで、その役を存在として受け入れるのではないだろうか。

そんな理論を映画で示しているとみた本作だが、正直面白いかと訊かれたら微妙なところといわざる得ない。

※IMDbより画像引用