【Netflix】『雨を告げる漂流団地』団地から見る閉じ込められた過去

雨を告げる漂流団地(2022)

監督:石田祐康
出演:田村睦心、瀬戸麻沙美、村瀬歩、山下大輝、小林由美子、水瀬いのり、花澤香菜、島田敏、水樹奈々etc

評価:60点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

今年は団地映画が盛り上がっている。『パリ13区』、『呪術召喚 カンディシャ』、『Love Life』と団地を舞台にした作品が公開/配信されている。団地映画といえばフランスと日本が盛んであるが、経路は異なる。フランス映画における団地は主にバンリューと呼ばれる外国人低所得者が住むエリアを舞台にしている。その特性上、パリと隔絶されたフランス像として団地が使われ、それが移民とフランス人との溝に繋がっている。顕著なのが『レ・ミゼラブル』だろう。フランス人の警察が、移民に見下しの眼差しを向ける。そんな警察がバンリューに潜入して、『七人の侍』さながらの狭い場所での戦闘を強いられる様子を通じて溝を描いていた。『呪術召喚 カンディシャ』では、生まれた時からフランスに住んでいる移民の子がアフリカの呪術に手を出して、暴力の連鎖を止められなくなっていく過程からフランスの暴力を描こうとしていた。ドキュメンタリー映画『スワッガー』では、移民しか住まなくなったパリから少し離れた団地を通して、我々がイメージするフランス像を覆した。

一方で、日本は翳りを通じて閉塞感を描く傾向があると感じた。それも家族というフレームに押し込められることへの息苦しさが反映されている。『Love Life』ではまさしく、部屋の仕切りを通じた交わらぬ眼差しを通じて表象していたし、『耳をすませば』は時間はあるし自由でどこへでも行けそうだがどこにも行けない様子を表す舞台装置として団地が存在していた。

さてNetflixで配信が開始された『雨を告げる漂流団地』はどうだろうか?

『雨を告げる漂流団地』あらすじ

「ペンギン・ハイウェイ」「泣きたい私は猫をかぶる」を手がけたスタジオコロリドによる長編アニメーション第3作。取り壊しの進む団地に入り込み、不思議な現象によって団地ごと海を漂流することになった小学6年生の少年少女たちが繰り広げるひと夏の別れの旅を描く。

姉弟のように育った幼なじみの航祐と夏芽は小学6年生になり、近頃は航祐の祖父・安次が亡くなったことをきっかけに関係がギクシャクしていた。夏休みのある日、航祐はクラスメイトとともに取り壊しの進む「おばけ団地」に忍び込む。その団地はかつて航祐と夏芽が育った、思い出の家だった。航祐はそこで思いがけず夏芽と遭遇し、のっぽという名の謎の少年の存在について聞かされる。すると突然、不思議な現象が起こり、気が付くと周囲は一面の大海原になっていた。海を漂流する団地の中で、航祐たちは力を合わせてサバイバル生活を送ることになるが……。

監督はこれが長編2作目となる、「ペンギン・ハイウェイ」の石田祐康。2022年9月16日から劇場公開と同時にNetflixで配信。

映画.comより引用

団地から見る閉じ込められた過去


本作は『ペンギン・ハイウェイ』の石田祐康監督が手がけているだけあって概念系の物語である。夏休みのある日、取り壊しの決まっている団地に侵入する。しかし、団地はそれ自体が生物のように変容し、子どもたちを果てしない海へと連れ去ってしまう。哲学誌フィルカルにおける難波優輝氏の廃墟論「みえかくれする人影」によると、建築家のアイリーン・グリーンはル・コルビュジエの「家は住むための機械である」発言に対して以下のような反論をしている。

「家は住むための機械ではない。人間にとっての殻であり、延長であり、解放であり、精神的な発散である。外見上調和がとれているというだけではなく、全体としての構成、個々の作業がひとつにあわさって、もっとも深い意味でその建物を人間的にするのである。」

難波氏は、この発想から発展させて廃墟体験を「再建された振る舞い」と定義し、人間の生活の痕跡から仮想的に行動パターンを再建していく行為だとした。

本作では、廃墟体験をしている存在として、頻繁に団地に侵入して過去の生活を再現している夏芽と彼女の行為に応答する過去の具現化としての幽霊「のっぽくん」が登場する。歴史の浅い彼女は歴史の深い団地に触れることによって、人間の面影を感じ、それが快感へと繋がっていた。と同時に、それは過去へ囚われてしまっていることになる。そんな彼女を救い出そうとするのが、航祐や仲間たちだ。彼らは、漂流する団地の中で、廃墟の歴史にはないであろうアクションを取る。お菓子を並べてパーティーをしたり、1階で水浴びをしたりする。新しいことをする=囚われた過去からの脱却とも取れ、過去の手触りに囚われている夏芽を救おうとすることで、安次に対する喪失感を受け入れ前へ進もうとする運動へと繋がってくるのだ。

団地が移動し、冒険が次のミッションや冒険が始まるのは、つまり過去を受け入れながら前へ進むことへのメタファーになっているとも言える。

本作が面白いのは『耳をすませば』同様、「ニュース」を与えないことでいつまでも続くと思っていた子ども時間の中でこの物語を描いていることだ。それが何を意味しているのか?まさしく過去に囚われるあまり停滞してしまう時間であろう。

一方で、空間ごと異世界に転送されてしまう物語として直近では『Sonny Boy』があったが、こちらと比べるとアクション構図が作りにくく苦労している印象を受けた。確かに、昔の団地特有の縦の構図と狭い部屋の組み合わせだと人を動かしづらいものがある。アパート型のように横長に移動できる構図を用いればアクションは描けたと思う。なので、団地空間を活かした動きをこの映画で見出すことは難しかった。

※映画.comより引用