『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』時間的支配から抜け出せない旅

歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡(2019)
NOMAD

監督:ヴェルナー・ヘルツォーク

評価:70点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

岩波ホール最後の上映作品『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』が公開された。本作はヴェルナー・ヘルツォークが「パタゴニア」の著者であるブルース・チャトウィンの軌跡を追うドキュメンタリーである。予告編で、アルゼンチンの世界遺産であるクエバ・デ・ラス・マノスが映っており観たくなりました。実際に観賞すると淡々としたナレーションに対してなかなか物騒な内容であった。

『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』あらすじ

「アギーレ・神の怒り」「ノスフェラトゥ」などで知られる鬼才ベルナー・ヘルツォークが、親交を結んだイギリス人紀行作家ブルース・チャトウィンの足跡を追ったドキュメンタリー。美術品のコレクター、考古学の研究生、ジャーナリストと、さまざまなフィールドで非凡な才能を発揮しながらも、1989年に48歳の若さで没したブルース・チャトウィン。彼が最終的に選択したのは、自らの足で旅をしながら小説を書く人生だった。南米の旅からデビュー作「パタゴニア」を書きあげ、アボリジニの神話に魅せられて中央オーストラリアを旅したチャトウィンは、当時は不治の病だったHIVに感染。87年に発表した「ソングライン」は、自らの死に方を探りながら書きあげた。そんなチャトウィンの生涯を、ヘルツォーク監督自身のナレーションにより、さまざまな人びとのインタビューを交えながら、全8章でつづっていく。

映画.comより引用

時間的支配から抜け出せない旅

旅は「観光」になって偽りのものとなった。サービスとしてシステム化され、スタンプラリーのようにガイドブックや口コミでマーキングされた場所を巡るものとなった。では遊牧民族、ノマドはどうだろうか?ヘーゲルは彷徨は形式的なもので、似たような形の空間・時間を繰り返していると語っている。つまり円環的時間に支配されているのだ。本来の旅は、このような時間的支配から解き放たれることであり、そこにロマンがあるといえる。祖母の家にあったブロントサウルスの皮をきっかけにパタゴニアへ憧れを抱き旅に出たブルース・チャトウィン。生前、交流があり彼の思い出の鞄を持つヴェルナー・ヘルツォークは彼の軌跡を追った。

これは単なる彼のドキュメンタリーではない。ブルース・チャトウィンの軌跡を通じてヴェルナー・ヘルツォークの往年の旅路を振り返っていく内容となっている。これは「パタゴニア」におけるチャトウィンと同じことをしている。深層面で彼の旅を踏襲しているのだ。「パタゴニア」では、チャトウィンが旅を通じて、強盗集団と出会ったり、チロエ島で「HUNTER×HUNTER」を彷彿とさせる洞窟会議での試験の話(教官が投げる頭蓋骨を一発で受け止めたり、あらゆる感傷を捨て去ったことを証明するために親友を殺すことがミッションだったりする)を聞いたりし、その経験を自分の本や宗教、歴史の知識と結びつけて自問自答していくもの。ヴェルナー・ヘルツォークも旅を通じて、『コブラ・ヴェルデ』における狂人クラウス・キンスキーとの関係を思い出しながら映画撮影と旅の関係を見つめ直していく。

ただ、「パタゴニア」と比べると、確かに誇張はあれども、決定的瞬間に立ち会うことはできていない。過去のフッテージに頼っており、崖をロープなしで登る者の緊迫感ある映像や『コブラ・ヴェルデ』の映像で誤魔化されている感じはある。結局のところ、ヘルツォーク監督の旅は過去に囚われたものであり、それは彼が『アギーレ/神の怒り』時代から続く狂気の撮影旅の劣化した再生産に過ぎないのである。ただ、被写体が語る言葉は非常に重く、チャトウィンの妻がさらっと彼が改宗し女性禁制のアトス山に行ったと静かに語る場面に戦慄させられる。

結局、ロス・アレルセス国立公園やクエバ・デ・ラス・マノスなどといった名所を巡る、チャトウィンの後追いしかできていない旅未満な代物ではあるのだが、この旅の擬似体験を通じて「パタゴニア」同様の思索の扉が開かれて面白い映画体験であった。
※映画.comより画像引用