東京2020オリンピック SIDE:A(2022)
監督:河瀨直美
評価:50点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
公開前から物議を醸している『東京2020オリンピック SIDE:A』。正直、河瀨直美監督作は苦手であり、異文化に土足で踏み入れる『七夜待』を観て以降すっかり心が折れてしまった。しかし、映画というのはシュレディンガーの猫であり、観てみないと面白いかどうかは分からないものである。今回、TOHOシネマズ海老名で観てきた。重い空気が流れる中、劇場に入り、腰をかける。しかし、一向にお客さんが入ってこない。チケットを買った時には、あと2人いたはずだが、その影もない。異界の扉を開いてしまったのかと不安になりながら映画を観た。結論から言おう。河瀨直美映画の中では一番まともに観ることができた。そして、恐ろしいことにこれが五輪映画やスポーツ映画を批評するタイプの作品であり、ここには鍛え上げた肉体による運動の快感は存在しなかったのだ。ということで書いていく。
『東京2020オリンピック SIDE:A』あらすじ
2021年に開催された東京2020オリンピックの公式映画として製作されたドキュメンタリー2部作の第1作。カンヌ映画祭常連で世界的にも知られる河瀬直美が総監督を務めた。1964年以来の東京での開催が決まった第32回オリンピック競技大会。しかし2020年3月、新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延により、近代オリンピック史上初の延期が決まった。そして2021年7月23日、コロナ禍は未だ収束せず開催に賛否両論が叫ばれる中、1年遅れの開会式が実施され、オリンピック史上最多となる33競技339種目、17日間にわたる大会がついに幕を開ける。無観客となるなど異例づくしとなった大会と、その開催に至るまでの750日、5000時間に及ぶ膨大な記録をもとに、2部作の1作目となる「SIDE:A」では、表舞台に立つアスリートを中心としたオリンピック関係者たちにスポットを当て、彼らの秘めた思いと情熱、そして苦悩を映し出す。
アスリートから運動を除き見えるもの
真っ白な雪が舞降る。このスピリチュアルな自然描写で河瀨直美映画だとよくわかる。自己紹介的自然描写を入れると、遊びの中にスポーツが入り込む子どもたちが映り、やがて新国立競技場に移る。会場の静けさ、低い温度感に対し、会場の外では五輪反対デモと、開会式のスペクタクルを見守る群衆により燃え盛る暑さを宿している。この時点で、異様な空気感があった。市川崑の『東京オリンピック』でもなければ、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』ではない光景が待ち受けていると。
自然や、ドローンが織りなす球体のスペクタクルは画に鋭く収まっているにもかかわらず、ヒトは「個」であれ、「群」であれ粗雑に扱われる。何気なく映ったものをそのまま流用しているのだ。確かに、現場の臨場感をアーカイブするために、決定的瞬間を外し、素人っぽく撮る演出はあるにはある。しかし、この映画で魅せられる光景はヒトに興味がなければ撮れないし、映画として採用しないようなショットばかりだ。ぐるっと空を見上げて、ブルーインパルスを撮る場面も、飛行機雲が映るだけで決定的瞬間を逃してしまっている恐ろしいことに、スポーツ関係者へのインタビューシーンでは、画面にはみ出すぐらいクローズアップし、左に目線を送っている人を左に、右に目線を送っている人を右に寄せているのだ。これは意図的ですよと、過去大会のフッテージを引用し、極端なクローズアップシーンについて説明しているのだが温度感が違う。フッテージは決定的瞬間を瞳に焼き付けようとする凝視の熱気を強調するためにクローズアップが使われているのだ。東京五輪にかける思いを淡々と語る被写体にこのクローズアップは明らかにおかしい。画面サイズが間違っているのかと思うほどだ。
また、河瀨直美は光を使いこなすイメージがあるのだが、本作では淀んだ光を積極的に捉えている印象を受けた。顕著なのは、沖縄の方へのインタビューシーン。被写体が、「このように青い空が…」と背の風景を指しながら語るのだが、そこにあるのは濁った天であった。撮影期間がタイトだったと見た。
恐らく、良い画が全然撮れなかったのだろう。撮影に制限が多かったのだろう。アスリートを映す場面も奇妙だ。聖火台は、テレビ放送以上に遠巻きに撮られる。密着するアスリートの試合は、負けたり、棄権したりする。もちろん、厳しい戦いだ。挫折もあるだろう。そこにドラマがあるはずだ。しかし、その人間のドラマには興味ないようで、試合が終わったら、次の対象に映り、アスリートよりもコーチを映し始める。しまいにはマラソンのシーンで、選手が走り出すも、すぐにカットを切り替えて運動による快感を奪う。優劣がまだつかないであろうレースのスタートシーンぐらいは、カッコよく撮れるだろうし、編集でいくらでも魅せられるはずなのだが、無慈悲にもカットを割りまくるのだ。これだけ、試合に注目しないものだから、ウズベキスタンの器械体操選手の場面は警戒した。過去試合のフッテージの切れ味抜群な試合を次々と繋いでいき、いよいよ東京五輪の試合。スタート位置に立つ彼女。すると、独白が流れるのだ。試合は魅せてくれないのかと緊張した。
このように歪な映画だが、この視点自体は興味深い。東京五輪を舞台にした『ナディア、バタフライ』が、スポーツ映画における試合をほとんど描かず、アスリートの内なる自問自答に目を向けたように、肉体的運動の快感を奪い、熱気の外側、舞台裏で自分を見つめ直す。そこに人間を見出そうとする。もし、本当に撮影の制約で良い画が撮れず、このような方向変換を行なっていたとするならば鋭い選択だと思う。実際に、赤子の面倒をみる者がアスリートとしての自分と親としての自分の間で葛藤する描写は惹き込まれた。
一方で先日、制作スタッフに河瀨直美監督が暴行を加えた疑惑がもたれているニュースを踏まえると、現場統率が全然とれていなかった故のクオリティともいえる。肉体的快感を引き離していると読んではみたが、スケートボードのシーンは決定的瞬間をスローモーションで仕留めているからだ。柔道選手を追っているカメラが明らかにブレブレで画に収められていない場面もあるからだ。市川崑の『東京オリンピック』がアスリートの肉体に固執し、人間が見えてこないことへの批評として撮っていたと仮定したところで、画に一貫性がないため弱い映画である。ユニークなアプローチではあるが致命的な問題を多く抱えすぎて決して良い映画だったとは言えないのが実情だ。
6/24(金)公開の後編『東京2020オリンピック SIDE:B』では、政治的裏側に密着しているそうだが果たして大丈夫なのだろうか。
興味深く観たが、不安しかないのであった。
※『東京2020オリンピック SIDE:B』巨大な不条理の渦中で彷徨う人々
※映画.comより画像引用