ペトルーニャに祝福を(2019)
原題:Gospod postoi, imeto i’ e Petrunija
英題:God Exists, Her Name Is Petrunya
監督:テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ
出演:ゾリツァ・ヌシェバ、ラビナ・ミテフスカ、ステファン・ブイシッチetc
評価:85点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
第69回ベルリン国際映画祭にてエキュメニカル審査員賞&ギルド映画賞を受賞した北マケドニア映画『ペトルーニャに祝福を』が新型コロナウイルス蔓延による1年もの公開延期を経て岩波ホールにやってきました。本作は、北マケドニアで起きた実際の珍事を基にした作品。北マケドニアの小さな町で開催される福男祭のような儀式に乱入した女性を巡って抗争が勃発するという内容で、映画祭の時から観たいと思っていた作品。ようやく観ることができたのですが、これが非常によくできた作品でした。
『ペトルーニャに祝福を』あらすじ
北マケドニアの小さな町を舞台に、女人禁制の伝統儀式に参加してしまった女性が巻き込まれる騒動を、オフビートな笑いにのせて描いたドラマ。北マケドニアの小さな町、シュティプに暮らす32歳のペトルーニャは、美人でもなく、太めの体型で恋人もおらず、大学を出たのに仕事はウェイトレスのアルバイトしかない。ある日、主義を曲げてのぞんだ面接でも、セクハラを受けたうえに不採用になってしまう。その帰り道、ペトルーニャは地元の伝統儀式に遭遇する。それは、司祭が川に投げ入れた十字架を男たちが追いかけ、手に入れた者には幸せが訪れるというものだった。ペトルーニャは思わず川に飛び込み十字架を手にするが、女人禁制の儀式に参加したことで男たちから猛反発を受けてしまい……。2019年・第69回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品され、エキュメニカル審査員賞ほかを受賞。監督は旧ユーゴスラビア(現・北マケドニア)出身で、これが長編5作目となる女性監督テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ。
北マケドニアの福男祭に女が乱入!?
そのわけとは…?
伝統や宗教とは厄介なものだ。
群れを一定のベクトルに向けさせ、そこから生まれる絆が救いになることもある一方、非科学的/非論理的ルールは技術の発展で世界が急速に狭くなり、合理化が求められる中で足枷となる。日本でも、愛知県半田市内で行われる聖火リレーのコースに女人禁制の「ちんとろ舟」を使ったルートが選ばれ物議を醸した。この事例では、聖火リレーを神事ではないと定義することで女性も乗ることができた。「伝統だ」とさえ言えば、どんなに非科学的/非論理的であっても押し通せてしまう。かといって現代に合わせて安易に方向転換するとその伝統を重んじる者から強い反発を受ける。それ故に難しい問題を孕んでいる。『ペトルーニャに祝福を』は一人の女性の目線から、伝統の厄介さを紐解き、それだけではなくエゴとエゴのぶつかり合いによる複雑骨折を紡いでいる。
主人公ペトルーニャ(ゾリツァ・ヌシェバ)は32歳フリーター。毒親に育てられた彼女は自己肯定感が低く、大学を出たにもかかわらずウィトレスのバイトしかしていない。そんな彼女に母親ヴァスカ(ビオレタ・シャプコフスカ)は面接を受けろと圧をかける。だが、渋々面接を受けるとセクハラに遭ってしまう。
彼女は幸せになりたい。微かな希望を見出したい。だが、家族に縛られどこにも行けない。そんな彼女は本能的に、地元の福男祭へと引き込まれていく。川に投げ出された十字架を最初に拾った者は幸せになれるらしい。男しか参加できないこの祭だが、彼女もおもわず川へ飛び込み、見事十字架を手にする。
しかし、男からは大ブーイングを受ける。怒った彼女はその十字架を奪って逃走する。
本作が鋭いのは、新聞の三面記事から複数の抑圧された視点を紡ぎ出していることだ。福男祭で十字架を投げる司祭(スアド・ベゴフスキ)は、ペトルーニャに十字架を与えてもいいと考えている。女人禁制の行事に女が参加する事よりも、十字架を醜く奪い合う方が道理に反していると考えているので。しかしながら、敬虔な男たちから「お前は彼女の味方か」と煽られ揺らぐ。自分のせいで町の治安が悪化してしまうのでは?と。そして責任が教会側にいかないように暗躍する。
また、本作では特徴的なキャラクター「ジャーナリストのスラビツァ(ラビナ・ミテフスカ)」が登場する。彼女はこの珍事を出しに特ダネを得ようとする。岩波ホールの方の解説によれば、北マケドニアでは女性は抑圧されており、強い女性というのが台頭しづらいとのこと。このスラビツァは、男たちに「わきまえない女」だと邪険に扱われていることに憎悪を宿しており、男どもを出し抜くことに全力な女だ。そんな彼女は、ペトルーニャや彼女の家族にコンタクトを取るのだが、明らかに彼女たちよりも自分が前へ前へ出ようとしている。この必死さが痛々しい。マスコミがマスゴミに闇堕ちした象徴として描かれており、当事者のことを無意識に傷つけていることが辛辣に描かれている。例えば彼女の家族にインタビューする場面では、事件と関係ないのに「恋人はいますか?」と訊き始める。家族はペトルーニャに仕事を与えてほしいと訴えるが、視聴率的に良いネタではないと考え、スラビツァはスルーを決め込む。この情報の露骨な取捨選択が醜悪なジャーナリスト像に対する風刺として働いている。
そして、ペトルーニャだ。彼女は十字架を強奪したことで、家族や警察、一般男性に罵倒され続ける。罵倒されている時の彼女は辛そうにしているのだが、取り調べを受けている時の彼女の顔にどこか嬉しそうな面影を感じます。これは容姿と家庭環境のせいで、誰の目にも止まらない路傍の石として生かされてきた彼女に町民の視点が集まったことによる快感と捉えることができる。彼女が十字架を持っていることで、皆が自分に注目してくれる。自分に価値があることに気がつき、自己肯定感を刺激されているのです。
なんと皮肉なことでしょう。罵倒され、酷い目に遭っているにもかかわらず、元々の生活環境が最悪な為希望になってしまっているのだ。それ故に、ラストの彼女の行動には涙が出てきます。
テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督の鋭い人間分析に圧倒されっぱなしでした。彼女の過去作も入手できたら紹介して行こうと思います。
P.S.実際の事件では、ペトルーニャにあたる女性は町人から罵倒され、移住する結果となったそうです。現実は残酷なものですね。
※岩波ホールサイトより画像引用
第69回ベルリン国際映画祭関連記事
・『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』カリスマ性0の男の日常を覗いてみないか?
・『I Was at Home, But…』家にはいたけれど
・【フランス映画祭2019】『シノニムズ』彼はことばの杖に手を伸ばす。それは《א》なのか《a》なのか?
・【Netflix】『エリサ&マルセラ』イザベル・コイシェが描くスペイン初の同性婚のお話