すばらしき世界(2020)
監督:西川美和
出演:役所広司、仲野太賀(太賀)、六角精児、北村有起哉、白竜、長澤まさみ、梶芽衣子、橋爪功
評価:20点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
昨年末から注目されていた西川美和監督(『永い言い訳』、『ディア・ドクター』etc)最新作『すばらしき世界』が公開されました。西川美和監督は、小説のようなアプローチで人間の二進も三進もいかなくなる心理を描くのが上手い監督である。今回は刑務所から出所した男の苦悩を描く話だそうで『ショーシャンクの空に』におけるモーガン・フリーマンが出所して社会に戻ろうとするが困難が生じてしまう部分を深く掘り下げていると見た。前評判も高かったのですが、いざ観てみると今年ワーストになってしまうのではないかと思うほどダメダメでした。確かに、西川美和監督はユニークなアプローチで陳腐になりそうなテーマを盛り上げていましたが、それが仇となってしまいました。今回はネタバレありで感想を書いていきます。酷評なのでお気をつけててください。
『すばらしき世界』あらすじ
「ゆれる」「永い言い訳」の西川美和監督が役所広司と初タッグを組んだ人間ドラマ。これまですべてオリジナル脚本の映画を手がけたきた西川監督にとって初めて小説原案の作品となり、直木賞作家・佐木隆三が実在の人物をモデルにつづった小説「身分帳」を原案に、舞台を原作から約35年後の現代に置き換え、人生の大半を裏社会と刑務所で過ごした男の再出発の日々を描く。殺人を犯し13年の刑期を終えた三上は、目まぐるしく変化する社会からすっかり取り残され、保護司・庄司夫妻の助けを借りながら自立を目指していた。そんなある日、生き別れた母を探す三上に、テレビディレクターの男とプロデューサーの女が近づいてくる。彼らの真の目的は、社会に適応しようとあがく三上の姿を番組で面白おかしく紹介することだった。まっすぐ過ぎる性格であるが故にトラブルの絶えない三上だったが、彼の周囲にはその無垢な心に感化された人々が集まってくる。
ショーシャンクの空に、その後
直木賞作家・佐木隆三が実在の人物をモデルにつづった小説「身分帳」の映画化であるが、皮肉に満ちたタイトル『すばらしき世界』に変更されたことからも分かるように『ショーシャンクの空に』に対する批評とも取れる内容となっている。
『ショーシャンクの空に』では、モーガン・フリーマン演じる囚人が、40年にも渡って釈放申請を行うが拒否され続け、ようやく釈放された時には社会に適応できなくなってしまい、約束の地メキシコで脱走したアンディ(ティム・ロビンス)と再会するところで映画は終わる。ラストショットで映し出される桃源郷は「すばらしき世界」と言えよう。ただ、実際はどうだろうか?
昨年、『プリズン・サークル』が公開された。選ばれし受刑者に対して行われる更生プログラムを描いたドキュメンタリーであり、受刑者同士が生活環境等に起因し社会に適応できなくなった思想を語り合うことで自分の中で消化していく様子が描かれていた。彼らは受刑者の中でも優秀であるのだが、出所後、金や人間関係に行き詰まっていた。『すばらしき世界』でも語られているように、受刑者は刑期満了後、社会に出ても5年以内に再び犯罪を行う可能性が高いのだ。彼らはモーガン・フリーマンのように「すばらしき世界」に逃避してハッピーエンドを迎えられるわけではない。
西川美和はそんな受刑者出所後の苦悩を時にコミカルに描いて魅せる。役所広司演じる主人公・三上は旭川で十年以上の服役を終える。軍事演習のように勇ましく歩き、過剰に大きな声で挨拶をする彼に禍々しさを覚える。爆弾が爆発しそうなハラハラドキドキが画面を支配する。彼は、久しぶりのシャバに「今度こそはまともに生きよう」とポジティブな表情を浮かべ、新たな人生を歩み始める。自分の母親をテレビディレクターの男・津乃田(仲野太賀)が近づいてきたこともあり、前向きだ。しかし、そんな彼の希望は不協和音によって打ち砕かれる。スーパーに行けば万引き犯に間違えられる、免許の更新に行こうとすれば教習所に通わねばならない。脳に持病がある彼の精神は、不安定でフラストレーションが溜まると暴力的に振る舞ってしまう。彼には人を助けたい心はあれども力が制御できず、不良に絡まれていたおっさんを助けようとしてチンピラをフルボッコにしてしまい、それが原因でテレビの案件がなくなってしまったりするのだ。そんな彼の心理を興味本位、ゲスな心で解剖しようとする2人のテレビ関係者。幼少期に親の愛を受けず施設に入れられたのが原因ではとズカズカ彼の精神領域に土足で踏み入れていくのだ。
『ザ・マスター』のホアキン・フェニックスのように、次にどんな動きをするか分からない男が秩序保たれた社会の中を動き回る一触即発の演技を魅せる役所広司は良いし、物語の多面的な切り口は面白いのだが、どうも陳腐な閉塞感ものを回避しようとして地雷を踏み抜いている気がする。
例えば、三上が深夜にお祭り騒ぎする若者集団の部屋にカチコミを仕掛けるシーンがある。部屋のボスを外に引きづり出し決闘となり、三上は「どこの組のもんだ?」と声を荒げるのだが、「ちょっとヤクザは……」と急に大人しくなる様子はある種のギャグとして描かれる。そこで終われば、いいのだが急に周囲の窓が開き、三上の陰口を言い出す場面はやりすぎだろう。もし社会からの蔑視の目を描くのであれば、部屋の明かりがつき、スマホで動画に撮られ動画サイトに拡散される描写にすべきである。それを盛り込めば、ゲスなマスコミの視点というのに深みが増す。それをせずにリアリティのない陰口描写で終わらせているのは悪手であった。マスコミのゲスさに対する批判として、本作ではサブエピソードである母親の面影探しを敢えて中途半端に描くことをしている。母親の面影は謎のおばあちゃんの歌声描写で終わらせ、彼の行動原理を明らかにしない作りとなっている。確かに、そうすることで犯罪心理学をちょっとかじってわかった気になる心理に対する批判となっているのだが、映画として観た時にそのエピソードは宙ぶらりんになっている気がした。
本作は終盤に行くに従い、三上が可哀想に思えてくる。三上が車を運転する仕事を横に置き、介護施設のパートに就く。するとあれだけ三上を苦しめた津乃田やスーパーの男(六角精児)がおめでとう、おめでとうと祝福し始めるのだ。そして当の本人は、職場で知的障がい者である従業員のイジメを目撃しているのに自分が手を出すと刑務所に行くことになるからと黙認しはじめるのだ。それだと倫理的にマズイと思ったのか、知的障がい者の従業員からコスモスの花をもらった三上が発作で死亡するところで映画が終わる。原作がどうかは知りませんが、あまりに脚本家の都合の良い落とし所にドン引きしてしまいました。
西川美和監督は相当悩んだのだと思う。『ヤクザと憲法』でも描かれているように、ヤクザの世界は社会のレールから外れた者を救うコミュニティ的役割をもっている。新興宗教やオンラインサロンもそうだが、コミュニティの中心に据えているモノが重要なのではなく、モノを通じたルールに一定の集団が身を置くことで生まれる安心感が重要だったりする。三上はかつてお世話になったヤクザの家に足を運ぶが、蚊帳の外にいるような気分になる。帰る場所のない三上の居場所、モーガン・フリーマンが到達した地を探す物語になっているのだが、右往左往しているうちに、ゲスな人々の中心で彼は亡くなり、死が「すばらしき世界」となってしまいました。
幾ら何でもそれは強引なのではないだろうか?結局、終始、役所広司の怪演だけで首が繋がっている居心地の悪い映画でした。
※映画.comより画像引用