【考察】『のぼる小寺さん』羨望の目線の先にある天を見る視線。

のぼる小寺さん(2020)

監督:古厩智之
出演:工藤遥、伊藤健太郎(健太郎)、吉川愛(吉田里琴)、鈴木仁etc

評価:65点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

Twitterで評判の『のぼる小寺さん』が映画呑みの課題作品に上がったので観てきました。有識者曰く、青春キラキラ映画でスポ根映画にもかかわらずライバル不在という異色作らしい。そして、何よりも『映画 聲の形』、『若おかみは小学生!』と傑作アニメを沢山手がけている吉田玲子が珍しく実写映画の脚本を手がけている(実写作品の脚本歴はあり、『白魔女学園』、『白魔女学園 オワリトハジマリ』や特撮作品を担当したことがある)ところに注目な作品である。本作は、非常にトリッキーな撮影が魅力的な作品である一方、問題を多く抱えた作品でもあります。今回は、そんな『のぼる小寺さん』について考察していきます。

『のぼる小寺さん』あらすじ


ボルダリングに夢中な女子高生を描いた珈琲原作の人気青春漫画を「ロボコン」「ホームレス中学生」の古厩智之監督が実写映画化。「けいおん!」「聲の形」「若おかみは小学生!」などのアニメ作品で知られる吉田玲子が脚本を手がけ、「ルパンレンジャーVSパトレンジャーVSキュウレンジャー」で活躍した元「モーニング娘。」の工藤遥が映画初主演を務めた。クライミング部に所属する女子高生の小寺は壁を見るとウズウズしてしまうほどボルダリングのことばかり考えていた。卓球部に所属する近藤は、隣で練習する小寺からなぜか目が離せずにいた。小寺としゃべれることがうれしい近藤は、次第に彼女に惹かれていった。しかし、そんな小寺を見つめているのは近藤だけではなく……。小寺役を工藤、近藤役を伊藤健太郎が演じるほか、鈴木仁、吉川愛、小野花梨らが脇を固める。
映画.comより引用

羨望の目線の先にある天を見る視線。

本作は、天のみを見る《小寺さん(工藤遥)》に羨望の眼差しを向ける「他人の人生」を生きている者が「自分の人生」を歩み始めるまでの過程を描く。《小寺さん》という磁場が重要となってくる為、『桐島、部活やめるってよ』同様、《小寺さん》はある種のマクガフィンとなっている。つまり、ボルダリング映画でありながら、ボルダリングに励む《小寺さん》の心情描写は徹底的に廃されている。その空洞に、他者の心が注ぎ込まれていく奇妙な作りとなっているのだ。それは小寺さんが主役の章になってっも同様であり、一見彼女の目線に見えてそれは先生の目線だったり神の目線=観客の目線だったりする。無論、クライミングは下から撮ると映えにくい為、上から撮るのが定石となっているが、彼女が上空のゴールを見つめる描写が全くない点、意図的だと言える。

このような演出を魅力的にする為に、古厩智之監督は《視線》に拘っている。

伊藤健太郎演じる近藤はスクールカーストのどこにも属さない人物だ。彼は常に上を向いている。何気なく窓を見るときも上を向いており、その上向きな視線の先にはボルダリングに励む小寺さんが映る。例え、同じ位置に小寺さんを配置しても、カメラの向きを微妙に傾け、彼の目線が上に向くように細工しているところに唸るところがあります。「天のみを見る小寺さんに羨望の眼差しを向ける近藤」という構図をじっくり序盤で描き、そこから面白い視線の遷移を魅せていく。教室に入る近藤の眼前には、オタク集団がアイドル動画を見ている様子が飛び込んでいく。彼らを眺める近藤に、オタク集団は手招きするが、それを古い払う。彼はオタク集団を見下しており、スクールカーストにおけるオタク集団に所属するくらいなら、孤独を選ぶ。傍観者として他人の人生を歩いていることを強調するのだ。

そんな傍観者としての近藤、自分の本能に身を任せ天を見る小寺さんの直線上に別の「他人の人生を生きていた人」を介在させていく。カメラ女子のは、カメラという趣味をひた隠しにして生きてきた。撮る写真も地面に佇む蝶だったりする。下を向いていた彼女がカメラを上に向けると小寺さんがおり、彼女から漂う後光に惹かれ、盗撮を始めるのだ。それを近藤は覗き込む。近藤の、小寺さんが気になる様を他者に継承させることで、近藤の傍観者的存在が強調されていく。そして、彼のドッペルゲンガー的存在である四条が彼女に惹かれボルダリング部に入部し、へなちょこからドンドンと垢抜けていくところに、近藤の理想が投影されていく。そして傍観者だった近藤は、そういった同じ傍観者の変化を通じて他者の人生から自分の人生へ一歩を足を伸ばそうとするのだ。その一歩をドッペルゲンガーである四条が後押しするところが素晴らしい。

「一生懸命頑張ったら小寺さんとつきあえるの?」

この四条の言葉には、「自分の人生を歩め」という強い意志を感じる。

それ以降、彼は傍観者を脱する為に、小寺さんに背を向け卓球に励むのだ。原作がそうなんだろうけれど、通常この手の話では近藤がボルダリング部に入るのがクリシェであるが、そうはならない。彼は卓球部としての人生を全うするのだ。

さらに、本作ではライバルの存在が描かれない。スポ根映画では通常、ライバルの存在が描かれる。試合では敵の存在が描かれるのだが、それは本作にはない。嘲笑するクラスメイトに対しては、「寂しいんだね。」とスルーするだけで全く取り合わないのだ。自分のやりたいことに他者の嘲笑は関係ないということを徹底している。

このように小寺さんというマクガフィンに複数の視点を交差させて、嘲笑を弾き返す磁場を生み出す演出が新鮮で面白い一方、問題が多い作品でもあった。

1.逃げの視線演出

本作は《視線》の映画にもかかわらず、カット割りに甘い部分が散見された。例えば、近藤のチラ見を強調するための卓球台描写。序盤は、小寺さんに背を向けて卓球に励み、ボールが小寺さんの方に飛んでいったら積極的に球を取りに行き、そのプロセスの中で彼女を見ようとする。恥じらいと、見たい欲望を表す表現だ。彼が覚醒すると、卓球に専念し、彼女を見ないようにする。ただ、カメラ卓球台越しに小寺さんを捉えてしまうのだ。ここは、近藤目線を強調し、フレームの外側で小寺さんの声が聞こえるという表現に留めるべきだと感じた。そうすることで欲望を制止し、自分と真っ直ぐ向き合う様が強調されるのではないだろうか?

2.アニメ的演出

今回、吉田玲子脚本が仇となってしまった気がする。というのは、アニメ的脚本と映画的脚本の使い分けができておらず、実写にするとキツい描写が散見されたからだ。アニメは現実を虚構に近づけていく作業だ。人々の感情はデフォルメor過剰化され、それが我々の内面に抑圧された感情を捉えていくものだと考えていく。実写の場合、現実と同じ世界線にあるとどうしても感じてしまい、ある程度のリアリティを求めてしまう。ジェリー・ルイス映画のように最初から、実写を漫画に近づける演出を施しているなら、デフォルメor過剰化された感情は許容できるものとなるが、それがないので痛々しい描写となってしまう。

例えば、近藤が心が通じ合った証に四条を抱くのだが、ゲイと間違えられる場面。アニメや漫画が作り出した百合文化BL文化がそこで炸裂するのだが、あまりに唐突でアニメ的過剰な反応に気持ち悪さを感じた。同様に、田崎と小寺さんの組み合わせだったり、小寺さんの飲んだジュースを近藤が赤面しながら飲む場面のアニメ的表現がかなりのノイズとなってしまった。

無論、アニメ界のエリック・ロメールと呼ばれるだけあって、今回も秀逸な会話のやりとりがあり、「夏は好きか?」という問いに対して近藤と小寺さんが議論し、それで心を一致させていく過程は見事であった。

しかし、今回の吉田玲子脚本は悪手に出てしまったと感じた。

最後に

それにしても、本作は爽やかに青春の1ページを描いているが、小寺さんが目をキラキラさせて読んでいるのが、どうやら『フリーソロ』でも描かれた狂人クライマー:アレックス・オノルドの記事だったり、校舎の道なき道を登ったりする狂気の映画だ。だが、そんな小寺さんの猪突猛進な活動に揺れ動かされていく傍観者像に、段々と私も心動かされていき、仕事を頑張りたいなと思いました。

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