【フレディ・M・ムーラー特集】『我ら山人たち』、『緑の山』山人VS巨大組織

我ら山人たち(1974)
Wir Bergler in den Bergen sind eigentlich nicht schuld, dass wir da sind

監督:フレディ・M・ムーラー

評価:60点

『山の焚火』で注目された伝説的作家フレディ・M・ムーラー特集がユーロスペースで開催された。『山の焚火』はTSUTAYA渋谷店のVHSを漁っているようなシネフィルの間で語り継がれている作品で、スイスの山奥で超絶ミニマムな生活の中で生まれるドロドロとした肉欲の関係性と、観たこともないような風景の融合で圧倒していく代物でした。そんな彼の特集では、貴重なドキュメンタリー映画2本も併せて上映されるということで観てきました。

『我ら山人たち』概要

「山の焚火」で知られるスイスの名匠フレディ・M・ムーラー監督が、自身の故郷であるウーリ州の山岳地帯を捉えたドキュメンタリー。変わりゆく山岳地帯で暮らす山人たちの生き方と精神世界に迫った作品で、民俗学的なテーマや共同体の閉鎖性など、後の「山の焚火」に繋がる多くの要素が本作の中に認められる。1974年・ロカルノ国際映画祭で国際批評家賞を受賞した。「山の焚火」「緑の山」とともに「マウンテン・トリロジー(山3部作)」を構成する作品。
映画.comより引用

アルプス少女ハイジの実際

フレディ・M・ムーラー山映画特集にて。アルプス少女ハイジの世界は実際には、複雑な経済や政治的問題を抱えていた。自治体がウーリ州山奥の農家を管理しようとするしかし、土地に愛着ある農家は、過疎化と過酷な生活に悩まされながらも下の町に反発する。山では一年に2度、家畜を移動させなければならず、自治体と協議の上、特定の期間公道を使用して家畜の輸送が許されている。下界の者からしたら非効率的な生活だし、生活の実情が見えないので余裕があるように見えるが、実際には終始動いていないといけない。しかし、彼らはANYWHERESなのである。自分たちの信条、ないし簡単に今の仕事を辞めることができない現状があるのだ。フレディ・M・ムーラーは永久に解決することが難しい、山人と下界の断絶にカメラを向け、饒舌に繋ぎ合わせる。そこには、10年後彼が撮る『山の焚火』の原石も転がっていました。

緑の山(1990)
Der grüne Berg

監督:フレディ・M・ムーラー

評価:60点

フレディ・M・ムーラーは『山の焚火』のイメージが強いが、実はドキュメンタリー映画畑を中心に活動している監督である。マウンテン・トリロジーの最終章にあたる『緑の山』は、放射性廃棄物管理場に選ばれてしまった山に住む者の抵抗を鋭く描いたドキュメンタリーでありました。

『緑の山』概要

「山の焚火」で知られるスイスの名匠フレディ・M・ムーラー監督が、アルプスの山間で持ち上がった放射性廃棄物処理場の建設計画を取材したドキュメンタリー。自分たちのルーツや土地を守ろうとする反対派と賛成派の住民たちを追う。ムーラーは本作を「子どもたちと子どもたちの子どもたち」に捧げており、次世代に対して責務を負うべき大人たちに問いを突きつける。「我ら山人たち」「山の焚火」とともに「マウンテン・トリロジー(山3部作)」とされる。
映画.comより引用

悪魔の発明

人類は、地球温暖化に対抗すべく、クリーンな発電方法を模索した。そして、1970年に原子力発電所を発明した。火力発電なんかと比べ、エコだと訴え運用された原子力発電所には罠があった。

それは、放射性廃棄物を半永久的に管理しなければいけないと言うことだ。本作は、そんな放射性廃棄物管理施設の建設場所に選ばれてしまった村の怒りを捉えている。

誰だって危険物の横では暮らしたくない。連邦や企業、研究所はこの爆弾を押し付け合ううちに、抵抗できない貧しい村へ目を向ける。「インフラ、好き勝手に使っておきながら、ゴミを無視するなんて都合よくない?」と圧をかけていく。

また、金でつっておきながら、手の平を返して、都合よく管理施設建設計画を進めていくのだ。

数十年前の映画なのに、今の日本の原発問題と大差ない。つまり、数十年経てども、人類は全く進歩していないことに絶望しました。

created by Rinker
紀伊國屋書店
ブロトピ:映画ブログ更新
ブロトピ:映画ブログの更新をブロトピしましょう!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です