【ネタバレ考察】『キャッツ』トム・フーパー監督はうっかり『死霊の盆踊り』を生み出してしまった

キャッツ(2019)
CATS

監督:トム・フーパー
出演:ジェームズ・コーデン、ジュディ・デンチ、ジェイソン・デルーロ、テイラー・スウィフト、イドリス・エルバetc

評価:55点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

ブンブンはここ数ヶ月心から楽しみにしていた作品がある。

それが『キャッツ』だ。

T・S・エリオットの言葉遊び詩集『キャッツ – ポッサムおじさんの猫とつき合う法(The Old Possum’s Book of Practical Cats)』を基にしたブロードウェイの大人気ミュージカルの映画化で日本でも劇団四季が『ライオン・キング』と並ぶ主力公演となっているが故、知名度が高い。実際に、先日天皇陛下が試写で本作をご覧になったこと、『サウスパーク』でもサブリミナル効果をおちょくった《シャブリミナル》回で本作がネタとして使われたことからその知名度の高さが伺えます。

しかし公開前から、海外の映画批評家たちによる大喜利大会が開かれ、騒然となっていました。アメリカのリポーターよりも割と冷静な反応を示しているフランス映画批評界隈においても辛辣な評価が下されています。

Le Dauphiné Libéréは「魔法は途中で悪臭を放ち始めます。」と語る。

Le Mondeは「警戒心を持たず、無防備な状態で部屋に入った場合、この奇妙な体験の傷跡を永遠に身体に残すリスクがあるでしょう。」とこれから観る人に警告を促している。

Libérationは「予告編は他に何も示唆していませんでした。年末の最も恐ろしい映画、おそらく特殊効果の最前線にあり、精神分析を迅速に正当化する不本意なテロの頂点に、ミュージカルが君臨した。」と嬉々として悲鳴をあげている。

Téléramaは「このキッチュな動物園から無傷で出現する人はまれで、おばあさんのトムキャットのように重く、惨めで気怠い気持ちになります。」

通常、VFXを使うことによる日常と虚構の狭間の不気味さ(=不気味の谷)は排除されるように演出される。しかしながら、予告編を観ると、まるで不気味の谷に留まろうとする気持ち悪さが蔓延としていたのだ。そして映画は、大スクリーンで何倍もの大きさになった人や家具を観るものという設定が大衆に広まった現代においても、猫という設定故に人間(いや、猫だったね)と家具の大きさが異なるその世界はどこか薄気味悪さを覚えると言えよう。ひょっとして、ギャスパー・ノエの『クライマックス CLIMAX』のように、合法的に薬物に冒された者の視線を擬似体験できる代物なのではないか?あるいは《不思議の国のアリス症候群》的特殊幻覚病魔を経験できる代物なのではないだろうか?ブンブンはワクワクしながら映画館へ向かいました。

…面白かったけど、、、大喜利する程吹っ切れたものはありませんでした。という訳でネタバレありで『キャッツ』について語っていきます。

【ネタバレ考察】舞台版『キャッツ』と比較してみた

『キャッツ』あらすじ


1981年にロンドンで初演されて以来、観客動員数は世界累計8100万人に達し、日本公演も通算1万回を記録するなど、世界中で愛され続けるミュージカルの金字塔「キャッツ」を映画化。「レ・ミゼラブル」「英国王のスピーチ」のトム・フーパーが監督、スティーブン・スピルバーグが製作総指揮を務め、英国ロイヤルバレエ団プリンシパルのフランチェスカ・ヘイワードのほか、ジェームズ・コーデン、ジェニファー・ハドソン、テイラー・スウィフト、ジュディ・デンチ、イアン・マッケランら豪華キャストが共演した。人間に飼いならされることを拒み、逆境の中でもしたたかに生きる個性豊かな「ジェリクルキャッツ」と呼ばれる猫たち。満月が輝くある夜、年に一度開かれる「ジェリクル舞踏会」に参加するため、街の片隅のゴミ捨て場にジェリクルキャッツたちが集まってくる。その日は、新しい人生を生きることを許される、たった一匹の猫が選ばれる特別な夜であり、猫たちは夜を徹して歌い踊るが……。
映画.comより引用

トム・フーパー監督はうっかり『死霊の盆踊り』を生み出してしまった

この映画が事故ってしまった最大の原因は監督がトム・フーパーだったことに尽きる。トム・フーパーといえば『英国王のスピーチ』で第83回アカデミー賞作品賞を受賞し、その後も世界はつの性適合手術を受けた人の伝記映画『リリーのすべて』を作っていたりする名匠だ。しかも『レ・ミゼラブル』では文学、舞台の壁を乗り越え、躍動感あふれるカメラワークと、演者を魅力的にする技法で大成功を収めているのだ。いくら今回、初めて映画の脚本を手がけたからといってここまで大失敗するようには見えない。では何故トム・フーパーは失敗したのか?

それは彼の真面目さと言えよう。まだ舞台版を観ていないのですが、どうやらプロットは舞台版に忠実なんだそう。監督は、『キャッツ』ファンの期待を叶え、尚且つ映画ファンに魅力を伝えるために、余計なアレンジは避けたらしいのです。ただ、そうだとしたら大問題である。そもそも原作は、ロンドンの猫たちの自己紹介を言葉遊びで描いていく詩集だ。そして、舞台はその自己紹介を並べ、猫の動きを意識したしなやかさと、観客をその自己紹介の渦に巻き込む力で物語的虚無を打ち消しているそうだ。

だとしたら、映画に最低限必要なのは、観客を物語的ツッコミどころから引き離す没入感と言える。しかし、本作には全くそれがありませんでした。例えば、冒頭の《ジェリクルソングズ・フォー・ジェリクルキャッツ》では、いろんな猫をまくしたてるような言葉遊びで紹介していく。「Political cats, Hypocritical cats,Clerical cats, Hysterical cats」といった感じに。そこはヒップホップ的、リズミカルな韻により生じるグルーヴ感によって観客が物語に没入していく線路となりえるものがあるのですが、どうもイマイチパワーを感じません。

また、映画的ミュージカル描写として、安易なバークリーショットに走るのですが、これが酷かったりする。なんたって、ケーキの上に乗る無数の擬人化ゴキブリを真上からサラッと映す程度のバークリーショットなのだ。無数の擬人化ゴキブリがケーキの上に乗り、それをガンビーキャットが捕食する狂気は別にぶっ飛んでいていいのですが、バークリーショットとしてはベタ過ぎる人員配置(ごめん、ゴキブリ配置だったね)で、バークリーショットをチラ見せしかしない演出には腹が立ちました。前から、安易なバークリーショットを使う映画には嫌悪を感じるブンブンでしたが、こればかりはここ10年でサイテーサイアクな演出と言えよう。

さて、本作で最も映画的表現ができそうなヴィラン・マキャヴィティに誘拐された猫を救うため、手品猫ミストフェリーズが魔法を使うという場面。これがあまりに勿体無い演出でした。《ミストフェリーズ》が流れ、フレーズ「Oh! Well I never was there ever a cat so clever as magical mister Mistoffelees」を復唱し、彼が杖を降るのだが、なかなか誘拐された猫たちを救い出すことができないといったことを何度も何度も繰り返すのだ。これは、観客も一緒にミストフェリーズを応援させる魔法が含まれている。観客も段々、猫たちと一緒に魔法を信じることで救い出される展開なのだが、観客が没入する前に、誘拐されたはずの長老猫オールドデュトロミーがそろりそろりと復活を遂げ、歌い始めてしまうのです。結局、魔法なんて持っていなかったんだと絶望するミストフェリーズに希望さす演出なのに、そこが強調されていないので観客の心に感動の爆発が起こらず不発してしまっているのです。

そしてこういった不発弾の連鎖により、結局この物語の目的は何?といった疑問がふつふつと湧き上がり、表層的自己紹介レベルで止まっている登場猫物に対して、何でスターから地に落ちて物語の端ですみっコぐらししているあの猫が選ばれ天に召されるのかと思ってしまう事態に陥ってしまいます。

結局のところ、トム・フーパーは最高の予算、最高のキャスト、歌も踊りも一流なのに、2時間自己紹介しかしていない原作に魔法を与えることはできませんでした。そういった映画をブンブンは知っています。『死霊の盆踊り』です。監督は、観客を縛り上げ、その前でゆるいストリップを躍らせることしかできなかったのです。それは監督の真面目さからくるのでしょう。これが、ポンコツ映画の巨匠アダム・ウィンガードだったら、さらに倫理観の破壊された魔界になっていたのですがこれは、その深淵までたどり着くことができませんでした。

でも、これをきっかけに舞台版『キャッツ』に対する興味が俄然と湧いてきました。どうやらAmazon Prime Videoでレンタルできるそうなので、観てみようと思います。

ブロトピ:映画ブログの更新をブロトピしましょう!
ブロトピ:映画ブログ更新

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です