【ネタバレなし】『惡の華』井口昇監督、偶像・玉城ティナに忍ばす、エロスの甘き香りを

惡の華(2019)

監督:井口昇
出演:伊藤健太郎、玉城ティナ、秋田汐梨、飯豊まりえetc

評価:70点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

昨年の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』に引き続き、押見修造の漫画が映画化されました。その名も『惡の華』。友人から原作オススメされて読んだのですが、全ページ修羅場、読者が「そっちへ行かないで!」と思う方向へ物語は進んでいき、かといって胸糞悪い作品が好きな読者を発狂させるハシゴ外し演出を随所に散りばめている『ヘレディタリー/継承』のアリ・アスター以上に凶悪な代物でありました。映画化するには前編・後編2部構成にするほどの時間が必要だと思ったし、ファム・ファタールである仲村を玉城ティナが演じるのは大博打だと感じた。

しかし、本作を手がけたのは井口昇監督だ。オールタイムベストにイエジー・スコリモフスキの究極の童貞映画『早春』を挙げている方だ。押見修造が得意とする、闇を抱えた思春期が持つ他者との距離感の不協和音をしっかり演出できるのかもしれない。

日本公開は9/27(金)ですが、幸運なことに試写会で一足早く観ることができましたので感想を書いていきます。

『惡の華』あらすじ


累計発行部数300万部を記録し、テレビアニメ化もされた押見修造の同名コミックを、伊藤健太郎と玉城ティナの共演で実写映画化。山に囲まれた地方都市。中学2年生の春日高男は、ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所に、息苦しい日常をやり過ごしていた。ある日、憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を衝動的に盗んだところをクラスの問題児・仲村佐和に目撃されてしまった彼は、秘密にする代わりに仲村からある“契約”を持ちかけられる。この日から仲村に支配されるようになった春日は、彼女の変態的な要求に翻弄されるうちに絶望を知り、自らのアイデンティティを崩壊させていく。やがて「惡の華」への憧れにも似た魅力を仲村に感じ始めた頃、2人は夏祭りの夜に大事件を起こしてしまう。「片腕マシンガール」の井口昇監督がメガホンをとり、アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の岡田麿里が脚本を担当。
映画.comより引用

井口昇監督、偶像・玉城ティナに忍ばす、エロスの甘き香りを

ボードレールは『惡の華』の《美への賛歌》で次のように詠っています。

高い空から来たものか、深い淵から出たものか、
おお「美女」よ?汚れて清いまなざしは
綯いまぜて徳と不徳を撒き散らし、
そなたは酒の酔いと似る。

(中略)

そなたは死者を嘲って、土足でそれを踏越える、
そなたの飾る宝石の「凄み」も魅力なくはない、
「殺人」さえが、最愛のそなたの装身具に混ってて
奢るそなたの腹上に恋慕の情に舞い狂う。


押見修造の原作は、絵と絵の構図が映画的であり、実際『小さな悪の華』にインスパイア受けている作品であります。そして、ボードレールの詩のように鋭利なナイフで持って読者の心臓をグサリと刺してくるものとなっています。ただ、押見修造の過去の闇を作品の中にぐちゃぐちゃになるまでねじ込むことが目的化してしまった為、3人のファム・ファタールの輪郭というものが曖昧となり、空中分解してしまった感じが否めなかった。

それに対して井口昇は、エピソードを取捨選択し、2時間にまとめる代わりに文学が持つ言葉の強みと、その言葉に溺れていく思春期の肖像を緻密に描こうとした。

まず本作最大の成功は、玉城ティナの起用にある。玉城ティナは『チワワちゃん』、『Diner ダイナー』と最近話題作に引っ張りだこな女優だ。彼女は本作で覚醒した。甲高く、甘い声で伊藤健太郎演じる春日に迫る。危険だと思いながらも彼女の重力に抗えない原作の持つ強い引力を完璧に再現すると同時に、猫のようにふにゃふにゃした動きで説得力を持たせる。誰もが彼女の手綱から逃れることができないと思ってしまう魅力がある。そして、エロスの甘美な囁きによって至近距離まで引き寄せられると、いきなり響き渡る重い声と、鋭い眼光に凍りつく。彼女の汚れて清いまなざしは観る者を金縛りにあったような気分にさせられるのだ。

ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』のような甘く官能的な外殻の内側にボードレールのナイフを仕込み、このチョコレートキャンディをポイっと口にすれば鮮血が流れる。観る前までは油断していたが、原作以上の凶悪さを体現している彼女は今年の私的アカデミー賞俳優賞にノミネートされました。

また春日を演じた伊藤健太郎の演技からも面白いものを感じ取りました。原作において個人的に、ボードレールを敬愛するという設定に鋭さを感じている。背伸びして小難しい文を読み、難しい言葉を使うことで自分に酔いしれるという思春期特有の感覚をボードレールの『惡の華』が象徴しているのだ。その背伸びの感触を伊藤健太郎は演じきっている。前半の彼は、言葉に着せられている感じが漂います。難しい言葉は使うけれど、それは春日のアイデンティティを形成することなく、彼の容器は空っぽだ。それが後半、悟りを開き、過去との決別を行おうとした時、難しい言葉から解放されようとした時、自分というものが見えてくる。一見すると、大根演技に見えるかもしれない伊藤健太郎の立ち振る舞いは計算され尽くしたトラップだということが分かる。それだけに、彼が不器用ながら新しい人生を歩もうとする姿は心に刺さるものがあります。

高嶺の花/官能の視点

押見修造の漫画が持つ、思春期特有の人との距離感が分からず傷つけてしまうような異様な視点演出は映画に容易に変換できるものではない。人の視点というものを気にしてきた彼だからこそ描けるものだ。それをどのように翻訳するかが、本作の成功の鍵となったが、井口昇監督はピンク映画の眼差しを持ち込むことで押見修造に近づくことができた。

体育の授業シーン、ヒロインである佐伯を春日が見つめる。カメラはクローズアップしていき、ズボンから薄らはみ出る彼女の尻を厭らしくカメラは仕留めるのだ。ここは見逃さないとばかりに。そして、本屋のシーンではうっかり彼女の胸を見てしまうところを、さも重要そうにカメラは大切に淡く捉えていくのだ。隠し撮りのようで、強調に満ちたショットは映画全体に背徳感を充満させることに成功している。井口昇監督は家族との対立で生じる距離感/軋轢の視線というもの描くのは苦手だったのだろう、そのポイントを避ける代わりに、官能の側面から高嶺の花に対する壁や、後ろめたさというものを捉えていました。

最後に

今回、原作全巻読み、ボードレールの『惡の華』を読んだ状態で鑑賞しました。

正直、原作は読まないで、読むとしても6巻ぐらいに留めて観にいくことをオススメします。

もし貴方が、中学高校時代に闇を抱えていたのであれば、この花は心のサプリメントとなり、貴方の持つ深淵を癒してくれることでしょう。日本公開は9/27(金)。是非劇場でウォッチしてみてください。

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