【アフリカ映画】『ラフィキ:ふたりの夢』ケニアで上映禁止になった同性愛映画!歴史的重要作だが、、、

ラフィキ:ふたりの夢(2018)
RAFIKI

監督:ワヌリ・カヒウ
出演:Samantha Mugatsia, Neville Misati,Nice Githinji etc

評価:55点

こんにちは、チェ・ブンブンです。

2018年のカンヌ国際映画祭で注目されたケニアのレズビアン映画『ラフィキ:ふたりの夢』を観ました。タイトルの《Rafiki》とはスワヒリ語で《友だち》という意味。本作は、ワヌリ・カヒウ監督がカンヌ国際映画祭《ある視点部門》に選出される快挙を成し遂げたものの、ケニアでは上映禁止処分となった作品です。

ケニア本国では、ケニア映画検閲委員会(KFCB)が映画検閲を行なっています。同性同士の恋愛を行うと14年の禁固刑に処されるのです。

« son thème homosexuel et de son but évident de promouvoir le lesbianisme au Kenya, ce qui est illégal et heurte la culture et les valeurs morales du peuple kényan ».
訳:同性愛のテーマとケニアでレズビアン主義を促進するという明白な目的のために映画を禁止しました。これは違法であり、ケニアの人々の文化と道徳的価値を傷つけます。
ル・モンド《La justice lève pour sept jours l’interdiction au Kenya du film « Rafiki »》より引用

本作は上記のKFCBの判断によって上映禁止処分となりました。

FRANCE 24のリポート《Kenya : le film “Rafiki”’ sélectionné à Cannes mais interdit dans son pays(ケニア:映画『ラフィキ』はカンヌに選出されたが、彼の国では禁止された)》によれば、2014年にナイロビの芸術集団によって作られた東アフリカのLGBTQコミュニティについてのオムニバス『The Stories of Our Lives』に次いで2回目の同性愛映画上映中止事件となります。

この事件は、ネット上で大きな論争を巻き起こし、LGBTQコミュニティを標的にした検閲は違法なのではないかと最高裁判所で争われました。そして、裁判所は同性愛かどうかを判断するために警察が強制的に肛門検査を行うことに対し《違法》と結論づけました。そして、本作の上映中止に反対する声が挙がり、2018年の9月21日に7日間限定(子どもは大人の同意が必要)でケニア一般公開されました。一つの映画が、ケニア社会を変えていったのです。

しかしながら、フランスメディアの評判は思いの外厳しい。カイエ・デュ・シネマは、ローカル映画の強さに寄りかかっている点に関して非難している。Premièreでは、本作を必要な映画としている一方で、定石、ありきたりな文法で演出で描かれているだけで、「良き信念で作られた映画が決して良い映画なのではない。」と釘を刺しています。

日本では、来月に関西クィア映画祭で上映されるこの問題作を一足早く鑑賞しました。

『ラフィキ』あらすじ


À Nairobi, Kena et Ziki mènent deux vies de jeunes lycéennes bien différentes, mais cherchent chacune à leur façon à poursuivre leurs rêves. Leurs chemins se croisent en pleine campagne électorale au cours de laquelle s’affrontent leurs pères respectifs. Attirées l’une vers l’autre dans une société kenyane conservatrice, les deux jeunes femmes vont être contraintes de choisir entre amour et sécurité…
訳:ナイロビに住むケナとジキは非常に異なる女子高生の2つの人生を送り、それぞれが自分の夢を追求する独自の方法を模索しています。彼女たちの道は、それぞれの父親が衝突する選挙運動の最中に交差します。ケニアの保守的な社会で互いに惹かれて、2人の若い女性は愛と安全のどちらかを選ぶことを余儀なくされます…
AlloCiné,より引用

良き信念で作られた映画が決して良い映画なのではない

本作はケニアの同性愛映画という真新しさとそれに付随する上映を巡る問題で世間を賑わせ、さらにはアフリカ映画の《今》を反映するブルキナファソのワガドゥグ全アフリカ映画祭、記念すべき50回祭典にてSamantha Mugatsiaが最優秀女優賞を受賞した。つまり、ケニア映画史にとってもアフリカ映画史にとって非常に重要な作品であることは明白である。

しかしながらPremière誌同様、私も「良き信念で作られた映画が決して良い映画なのではない(Les bonnes intentions n’ont jamais fait un bon film.)」という言葉をこの映画に送りたい。

ある意味この映画は『新聞記者』評でチラホラ見かける「志は高いが、映画としてはちょっと…」という空気感と似ているのかもしれません。

ヨーロッパでチヤホヤされるアフリカ映画にありがちな部族とか広大な自然の中でのドラマというものを避けるように、都市における市井を映し出す。サプールのように、色鮮やかな服装に身を包み、軽快な音楽、ヴィジュアルが画面を覆い尽くす。選挙が近い町で少女ケナは、ド派手なファッションで仲間とおしゃべりをしているZikiに一目惚れしてしまう。頭の片隅に彼女のことがチラつく。それはド派手なファッションという表面的なものに対する好奇心ではない何かだということに彼女は気づくのだ。『アデル、ブルーは熱い色』でエマに対する特別な感情を花咲かせていくアデルを彷彿させる繊細な描写になっている。

ただ、これが開始20分ぐらい経つと、ほころびが出始め、雑な演出となっていく。

男と共にサッカーを楽しむケナの前にジキが現れて、「わたしもやってみたい」と言う。それに対して男友達は、ニカっと笑い、「うーんNoだ。ケナは男のようなプレイをするからいいんだ。」と断る。それに対して、ケナは「いいじゃん、一緒にやろうよ。」と手を差し出す。起承転結における《起》から《承》に移る描写だ。ただ、そこで何故か大雨が降り、二人は秘密の花園を示すバンに駆け込み、そこから恋愛感情を募らせていくようになる。あからさまな、花園への誘導シーンは、物語を陳腐なものへと変えていきます。

そして、定石のように二人だけのかけがえのない時間や引き裂かれる事件、親との反発や将来に対する思春期の不安描写が事務的に並べられる。何だか、『アデル、ブルーは熱い色』で刹那の交わりが、互いのレールによって引き裂かれ、全く別の世界に行ってしまった後に思い出を反芻するすることによって染み出す悲しさ、LGBTQ映画という枠組みを超えた自己に刻まれる恋歌の痛みの表面的なところを切り取って並べているような印象しか残りませんでした。

確かに、惹き込まれる要素もある。バーのシーンで男友達が「これが俺の女だ。」とゲラゲラ笑うシークエンスからさりげない男尊女卑社会への批判を入れていくあたりの自然さには唸らせられるものがありました。でも所詮は綺麗に《美》と《問題提起》を並べただけで、映画として見た時に陳腐な像しか浮かび上がらない。『死ぬまでに観たいアフリカ映画1001本』なんて本があったらおそらく掲載されるであろう、ブンブンが執筆するなら間違いなく入れる。しかし、志の高さやケニアのレズビアン映画という大きくド派手な看板だけでこの映画を絶賛してはいけないと思いました。

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