そして光ありき(1989)
Et la lumiere fut
監督:オタール・イオセリアーニ
出演:シガロン・サニャ、サリー・バジーetc
評価:95点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
ヒューマントラストシネマ有楽町で開催されているオタール・イオセリアーニ映画祭で長年探していた作品『そして光ありき』が上映された。本作の存在を知ったのは高校時代。キネマ旬報のオススメ映画紹介本で知って以来、10年近く探していた。海外ルートでの入手も検討したが、フランス版のDVDBOXが16万円することを知り断念した。それだけに今回の上映決定は涙が出るものであった。実際に観ると、なぜジョージア出身のオタール・イオセリアーニ監督がセネガルの部族映画を撮ったのかがよく分かる作品であった。
『そして光ありき』あらすじ
旧ソ連のジョージア出身で、1979年以降はフランス・パリを拠点にさまざまな作品を発表した名匠オタール・イオセリアーニが、全編をアフリカのセネガルで撮影した長編劇映画第5作。
セネガルの森に住むディオラ族。男たちは川で洗濯をし、女たちは弓矢で鹿を狩って暮らしている。女祈祷師のバディニャ、狩人の女ゼズヴェ、そして、怠け者の夫ストゥラと別れ、3人の子どもを連れて再婚するオコノロなど、それぞれの日常が繰り広げられている。しかしその一方で、白人たちによる森林伐採が進み、彼らの暮らす村にも危機が迫っていた。
ディオラ族の牧歌的な生活と、産業により文化が侵食されていく様を寓話的に描いた。1989年・第46回ベネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞。日本では2023年2月、「オタール・イオセリアーニ映画祭 ジョージア、そしてパリ」にて劇場初公開。
文化が離散してしまう時
樹齢何十年にもなろう立派な大木が切り倒される。大木は都市部に運ばれていく。森林開発が進むセネガルの地を映した後に、映画はディオラ族の生活を映し出す。彼らの言語には字幕がほとんどつかない。サイレント映画のように時たま、状況説明のテロップが挿入されるだけだ。観客は、文化人類学者のように彼らの生活に眼差しを向け、どのような文化があるのかを目撃する。それはマジックリアリズムのような世界である。女が、フッと息を吹きかければ人は吹き飛ぶ。生首を肉体にくっつけることで死者は蘇生する。だが、それはこの部族の中ではさも当たり前かのように扱われる。
映画は家族や恋愛に関するものだ。ニートな男に対して女が不満を残す。男を巡って女同士が喧嘩する。それは台詞の意味が分からなくても画で通じるものとなっている。家の前で図々しく寝そべる男に女がガミガミ言う。男にナイフを投げつけ、女同士が取っ組み合いの喧嘩をする。それだけで十分だとオタール・イオセリアーニ監督は語るのだ。視覚メディアとしての映画を徹底的に魅せていくのだ。
部族の生活を映す中で次第に文明の翳りが忍び込む。車に乗った男が、部族の人々に餌付けを行う。何人かは、労働力としてか都市部に連行されていく。その過程で村は衰退していき、難民として都市部へと大移動をすることとなる。都市部では都市部のルールを押し付けられる。服を着させられるのだ。そして部族の文化は崩壊し、土産ものとして売られる水神様の彫像にかろうじてその文化が残る。しかし、結局として雨を降らせる神様が土産に押し込まれてしまう悲劇的な状況には変わりない。
『唯一、ゲオルギア』にて、ソ連に支配されたジョージアが世界から「ソ連の一部」として見られてしまい、ジョージアとしての文化が見えなくなってしまった状況について語られていた。それを踏まえて本作を観ると、ディオラ族の文化が森林開発により破壊され、離散することで「ディオラ族の文化」が見えざるものに陥ってしまう状況とジョージア史が重なる。オタール・イオセリアーニ監督は遠く離れたセネガルから普遍的な文化消失の仕組みを汲み取った。
10年間探して観た甲斐があった大傑作であった。
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※映画.comより画像引用