あのこと(2021)
原題:L’événement
英題:Happening
監督:オードレイ・ディヴァン
出演:アナマリア・バルトロメイ、サンドリーヌ・ボネール、ケイシー・モッテ・クラインル、アナ・バイラミ、ルイーズ・オリー・ディケロ、ルイーズ・シュヴィヨットetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
2022年ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノー「事件」原作にして第78回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞に輝いた『あのこと』がついに公開された。事前に原作を読んだのだが、「映画化不可能なのでは?」と思った。確かに映画化すること自体はできる。しかし、アニー・エルノーの執筆スタイルを踏まえると、その質感を映像に翻訳することが難しいのだ。
小室廉太氏の論文「恥をかく──エルノーのエクリチュールから──」をによれば、アニー・エルノーは自分に起きたことを「小説」として書いているとのこと。これは日本で一般的に言われる「私小説」とは異なり、アニー・エルノーとは別の人物を主人公に置いているからだ。一方で、インタビューにおける彼女自身に起きたことを小説の内容は一致する部分が多い。
フランスの哲学者ポール・リクールは、自伝は日記と比べて、自分の偏ったエピソードを並べられるから小説的だと「Réflexion faite(遂行された反省)」で実践していた。この二つを踏まえるとアニー・エルノーは、小説という虚構に現実を注ぎ込むことで自分の身に起きた強烈なことを客観視しようとしていると考えられる。
そして、「事件」は客観視としての文学的手法が多数用いられている。それは法律文の引用であったり、カッコを用いた内面の表象だったりと多岐に及んでいる。生々しく、当時の凄惨さを再現しつつ。主観的になりつつも客観的に見ようとする葛藤の中で、自分の中に事象を落とし込んでいく痛み。これが特徴的であった。それは「嫉妬」にも通じるものがあり、果たして映画で描けるのかといった疑問がわいた。
なぜならば、映画はーアニメや実験映画の例外を除けばー現実世界を撮る必要があるからだ。主観に寄ってしまい、アニー・エルノーが葛藤した主観/客観を描けないのではないだろうか。しかし、オードレイ・ディヴァンは見事にその難題をクリアしてみせた。長くなったが本題に入るとしよう。
『あのこと』あらすじ
2022年度のノーベル文学賞を受賞した作家アニー・エルノーが若き日の実体験をもとにつづった短編小説「事件」を映画化。「ナチス第三の男」などの脚本を手がけたオドレイ・ディワンが監督を務め、2021年・第78回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。法律で中絶が禁止されていた1960年代フランスを舞台に、望まぬ妊娠をした大学生の12週間にわたる戦いを、主人公アンヌの目線から臨場感たっぷりに描く。
労働者階級に生まれたアンヌは、貧しいながらも持ち前の知性と努力で大学に進学。未来を掴むための学位にも手が届こうとしていたが、大切な試験を前に自分が妊娠していることに気づく。中絶が違法とされる中、解決策を見いだすべく奔走するアンヌだったが……。
「ヴィオレッタ」のアナマリア・バルトロメイが主演を務め、「仕立て屋の恋」のサンドリーヌ・ボネール、「燃ゆる女の肖像」のルアナ・バイラミが共演。
文字の外側に広がっている主観の痛み
結論から言おう。オードレイ・ディヴァンがアニー・エルノー「事件」を翻訳する際に取ったアクションは2つだ。画と声である。やわらかい陽光、翳りひとつないどこかアンニュイとした空間に一人の学生として授業に励むアンヌ(アナマリア・バルトロメイ)がいる。彼女の生活はリアルなものだ。例えば、授業で先生が「誰か意見がある人?そこの君、言ってみよう!」と指名するも、「わかりません」と語る。教室に嘲笑の冷たい風が吹き荒れる。そんな中、アンヌが指名される。彼女は、つまりながらも自分の意見を鋭く述べる。彼女は意見を持っているのだ。しかし、それを積極的に発言してクラスからハブられるのが嫌なのだ。モブとして、群れの中にいたいのだ。しかし、そんな彼女に転機が訪れる。
「妊娠」である。男は、彼女を突き放す。友人に吐露することもあるが、肉体的痛みレベルまで寄り添ってもらえない感覚を抱く。彼女は群れの中にいたかった彼女は孤独の海へと突き放されるのだ。彼女がさっきまで映っていたやわらかい光に包まれる空間。その中にいても心身の痛みが彼女を逃すまいと掴む。群れもどこか彼女を避けているような空気を纏う。この質感を生み出したことこそこの映画が成功したポイントといえる。
そしてもう一つ注目すべきポイントがある。医者から妊娠していることを告げられる場面の次に、友人とラテン語agere(=行う)現在形の活用を詠唱する場面を展開するところにある。外国語を発することはある意味他者になることである。留学生が日本に戻ってきた時に振る舞いが以前と違うように感じるのは、異なる言語でコミュニケーションを行うことで他者になった名残りの表れであることからも明白である。
ago,agis,agit,agimus,agitis,agunt……と呟く。「行う」、「追う」、「奪う」などといった様々な意味を持つこのラテン語を呟くように詠唱することで、彼女がやらないといけないことが脳裏によぎる。それを翳りある彼女の顔と何も感じていない友人の顔を並列することで心理的痛みに歩み寄っている。
これは「事件」において、サルトル「出口なし」の演劇を見ている時に頭に拡散するノイズに苦しむ姿の翻訳といえよう。
オードレイ・ディヴァンの次回作は『エマニエル夫人』とのこと。官能映画の代名詞として消費されている本作をリメイクすることで、本質であったはずの「奥なる存在」として抑圧された女性像に光を当てようとしているのではと思い期待している。
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※映画.comより画像引用