ノー・シャーク(2022)
NO SHARK
監督:コーディー・クラーク
出演:Ian Boyd、イリース・エドワーズ、ビル・ウィーデン、コーディー・クラーク、Livvy Shaffery etc
評価:100点
たとえ海の中、砂の中、雪の中、さらには家の中。
映画の世界なら神出鬼没に現れるサメ。『ジョーズ』で世界的にサメ映画が認知されて以降、CGの発達と共に数多のサメ映画が作られてきた。2010年代後半ごろからTwitterでサメ映画がカルト的人気を博し、2021年には知的風ハット氏が「サメ映画大全」を発行した。ジャン=リュック・ゴダールも『イメージの本』で『ジョーズ』を引用した。映画界隈だけでなく、VTuber界隈にもサメ映画は侵食し、ギルザレンIII世は「漂流、あるいはテスト配信」の中で、訪問者の入れ替えのトリガーとしてサメによる捕食を取り入れている。このように今サメ映画の熱量が勢いを増している訳ですが、Amazon Prime Videoに究極のサメ映画が爆誕した。
その名も『ノー・シャーク』だ。
遂にサメが一度も出ないサメ映画が現れたのだ。
これが、2022年ベスト候補になるほどの大傑作であった。
『ノー・シャーク』あらすじ
ある種の苦悩を内面に抱えつつも、「サメに食べられる」という夢を叶えるためにニューヨークのビーチを放浪する女性・チェイス。そんな彼女の独白を12話から成るエピソードで綴ったダーク・コメディ。
※Amazonより引用
サメ無きサメ映画、サメテガルな日々にさよならを。
「サメ映画? Ça m’est égal!」と思いの方こそ観てほしい。なぜならば、コンマビジョン映画だと思って観たら、『叫んでいるなどとは思わないでください』のようなアンスティチュフランセで上映されるタイプの映画であり、エリック・ロメールやジャック・ロジエ、ギヨーム・ブラックを彷彿とさせるバカンス映画でもあったのだ。
話は、ある女性がコニーアイランドにやってくるところから始まる。「サメに食べられたい」願望を持つ彼女はビーチを巡って、サメが現れる瞬間を待っている。しかし、サメに食べられたい願望を持ちつつも海には入らず、閑散とした砂場で、人間観察をし、思索を巡らす。本作は、彼女の怒涛の独白が2時間続くのです。夕刻の絶妙な時間、群れと隔絶された位置からの眼差しが彼女の孤独を象徴させる。彼女は、サメに食べられたい欲望の中に、誰かと親密な関係になりたい渇望を隠しているようだ。
ビーチには、同様の感情を抱く者が点在しており、誰かに話しかけられるのを待っている。彼女は話しかけてみる。脳内では完璧に言葉の杖を振るい振る舞っているようにみえるが、あまりうまく行っていないように感じる。なぜならば、彼女は他者を蔑視しており、自分は900ページに及ぶ小説のような存在であり、話しかけた対象はパンフレットレベルの者だと捉えているからだ。これでは親密な関係になる訳がない。他者に話しかけられたい一方で、自分の領域には入って欲しくない矛盾を抱える彼女は、ビーチにたたずむ女性に砂をかけたり、タオルを奪ったりして邪魔を始めるため一期一会の表層的な対話しか生まれない。それに伴い、ビーチもどんどんビーチから遠いこぢんまりとしたものとなり、群れも少なくなってくる。
暗闇は搾取的な視線から解放できるのか?
彼女が何故このように捻くれた性格になってしまったのか。これは段々と分かってくる。既に、太腿の傷から精神的病を抱えていることはわかるのだが、決定的なのは男性からの眼差しといえよう。チャラい男性から性的に消費する眼差しが捉えられる。そこに対する嫌悪が語られるのだ。女性監督のニナ・メンケスは『BRAINWASHED: SEX-CAMERA-POWER』の中で映画における男性の消費的眼差しを批判していたが、それを映画に理論的に落とし込んだのが本作と言える。
チャラい男に話しかけられて、駆け引きが始まる段階で画面は真っ暗になるのだ。主人公は、瞳を閉じると想像ができなくなると語っている。実際には、瞳を閉じると物理的に暗闇に覆われる。人々は暗闇の中に像を投影させることができるが、彼女はそれができないのだ。しかし、それは像という固定化されたイメージから解放することでもある。ギー・ドゥボールは『サドのための絶叫』映像メディアにおける視覚的快感に大衆が飲み込まれることを批判するために、断片的な語りの白画面と無音の黒画面を交互に挿入する映画を作った。『ノー・シャーク』の場合、性的眼差しで迫られる女性という構図を黒画面で隠すことで、女性を解放させているのだ。そして、幻滅するチャラ男の眼差しで復讐に成功している。この演出はサメ映画における女性が性的癒しを与えるアイコンになってしまっていることへのカウンターでもあるのだ。この男性の眼差しへの批判演出に鋭さを感じる。しかし、暗闇の中で女性を解放しても痛みは消えない。時にフラッシュバックすることが、後の気持ち悪い男による幻影のような接触で強調される。
見る行為に対する消費の側面
これを踏まえると、出会いを求める女性に対する嫌悪にも納得がいく。サメに食べられたい欲望でビーチを巡る行為は、つまり彼女の自己嫌悪を解放してくれる人を探していることと同義と言えるのだ。そして、心が壊れてしまった彼女にとって理想の出会いはサメに食べられる以上に難しいことと言える。そんな彼女が彷徨う中で、救いを求める立場から救う立場へと変わる。その時、独白の視点に変わる。独白の映画は意外と多いが、このように視点を変化させることで見る/見られる関係性をより客観的に捉えられていると言える。
思い返してみれば、ダンスをし始める孤独な女性に対して、映え動画を撮り始める女性コンビがいた。これは見ることに対する洞察と言える。『ノー・シャーク』の本質的なテーマとして、見て消費することへの批判があるのだろう。人間観察する時に自分を上位存在として見てしまう様子。それが、時に映えのためだけに見ず知らずの他者を画に収めたり、性的興奮のために外見を利用する。他者がサメに食べられることを望んだりする歪んだ欲望に繋がってくるのだろう。 主人公は、そのような真理にたどりついていない。彼女は放浪する中で、誰かの救いを求める立場から救う立場になる。これによりひとまず彼女の中にある種の平穏が訪れるのだ。
なんて深い映画なんだろうとただただ感動を抱いたのであった。
バカンス映画
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※IMDbより画像引用