【ネタバレ考察】『空白』誤解の空白、赦しの空白

空白(2021)

監督:吉田恵輔
出演:古田新太、松坂桃李、田畑智子、藤原季節、趣里、伊東蒼、片岡礼子、寺島しのぶ、野村麻純etc

評価:80点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

ヒメアノ〜ル』、『犬猿』、『愛しのアイリーン』と今、脂が乗っている監督のひとり吉田恵輔の新作『空白』をユーロスペースで観てきました。現在公開中の『由宇子の天秤』同様、正義の暴走を重厚に捉えた2020年最重要作品のひとつでありました。例のごとく、思わぬギミックと笑いに満ち溢れた作品のなのでネタバレ考察とします。

『空白』あらすじ

「ヒメアノ~ル」の吉田恵輔監督によるオリジナル脚本作品で、古田新太主演、松坂桃李共演で描くヒューマンサスペンス。女子中学生の添田花音はスーパーで万引しようとしたところを店長の青柳直人に見つかり、追いかけられた末に車に轢かれて死んでしまう。娘に無関心だった花音の父・充は、せめて彼女の無実を証明しようと、事故に関わった人々を厳しく追及するうちに恐ろしいモンスターと化し、事態は思わぬ方向へと展開していく。悪夢のような父親・添田を古田、彼に人生を握りつぶされていく店長・青柳を松坂が演じ、「さんかく」の田畑智子、「佐々木、イン、マイマイン」の藤原季節、「湯を沸かすほどの熱い愛」の伊東蒼が共演。

※映画.comより引用

誤解の空白、赦しの空白

私は不幸の回転寿司映画が大嫌いである。

日本の閉塞感ものに割と多いのだが、社会の嫌な部分を不幸として並べていく手法は、ただ同情を誘い賞レースでもてはやされるだけの下品な演出だと思っている。意外と現実も映画のように伏線が地続きになっているもので、大きな不幸はその5手前で運命づけられていたりする。つまり、映画で不幸を描くには、小さなトリガーが繋がっている必要がある。それが繋がっていくと、右から左から修羅場がやってくる作品に仕上がる。私は、修羅場がいっぱいな映画が好きである。「覗き」の側面を持つ映画のエッセンスが研ぎ澄まされたジャンルだと思っている。

吉田恵輔監督は、ショットこと印象に残らないものの、演出によって意地悪な地獄を魅せてくれる。その地獄の中に人間の本質が見えてくる。

さて『空白』の話をしよう。

2020年を代表とする不幸の回転寿司映画『茜色に焼かれる』よりも高速で、不幸の矢が観客に降り注ぐ。学校に居場所がなく、先生からもクラスメイトからも強くあたられる花音(伊東蒼)。彼女がスーパーでマニキュアを見ていると、突然店長・直人(松坂桃李)に腕を掴まれバックヤードへ。万引きしたのだろうか?彼女は店を飛び出す。彼は追いかける。長い追いかけっこの末に彼女は車に轢かれてしまう。通常の映画であればここでおしまいだが、『空白』の場合、意地悪にももう一度大きな大きなトラックに轢かれ身体が粉砕される。彼女の父親・充(古田新太)は粗暴な漁師だ。常に周囲に怒り散らしており、妻とは離婚している。娘は完全に萎縮してしまい。学校のことを話そうにも、打ち明けることができない。だが、いざ彼女が亡くなると、心の拠り所のなさから真実を突き止めようとする。彼女は絶対に万引きしていないと。直人と充の対立は周囲を巻き込んでいき、不幸が連鎖していく。花音を轢いてしまった女性はトラウマを抱え、充に謝罪しようとするが、彼は直人にしか興味がなく相手にしない。それが彼女を追い詰めていく。直人に想いを寄せる従業員・草加部(寺島しのぶ)は、執拗に追い回すマスコミや充からどのようにして彼を守ってやれるのかを考え、空回りした間合いの取り方をしてしまう。学校人は、充からの敵意を回避するために、直人が花音にセクハラをしたかもしれないと匂わせる噂を吹聴し責任逃れを行っていく。引くに引けなくなった充の行動はエスカレートしていく。

群像劇として捲し立てるように修羅場をつるべ撃ちしていく、そこには違和感を織り交ぜる。例えば、直人が花音をバックヤードに連れていく場面では、万引きしたにしては明らかにおかしいタイミングだったりする。草加部の粘着力ある間合いで直人に迫る様子からは、マルチ商法や新興宗教の香りがする。だが、なかなかその実態は明かさない。それどころか、直人が本当にセクハラをしたかどうかも明らかにせず映画は終わってしまう。

これこそが吉田監督の超絶技巧の演出と言える。本作の本質は「正義の暴走」とその先にある「赦し」。誰しもが、正義を振りかざした時に盲目になる。そして、人間は100%善人も100%の悪人も存在しない。多くの日本映画では最初のイメージ通りにキャラクターを描く傾向がある。他の監督が同様のテーマを扱った際には、古田新太はずっと怒っているキャラクターとして描写されるであろう。だが、彼の元に弟子が戻ってきて「俺、添田さんの船にならなければホストになるしかないんっすよ」と再び船に乗せてくれと懇願する場面で、初めてニカっと笑い「そうか、それは大変だな」と言い放つ。ここでモンスターだった彼が人間味を出すのです。思わぬタイミングで提示される人間味に観客も思わず笑ってしまう。あまりに地獄すぎる世界の中、刹那に溢れる光にカタルシスを抱くのです。そこからは、スーパーが潰れ人生の荒野に放たれた直人と漁師に戻る充の様子が描かれる。

あれだけマスコミや群衆は騒いでいたのにもはや忘れ去られ、残ったのはモヤモヤだ。修復不能になってしまった状態からの再生に映画は舵を切るのです。しかも、本作が鋭いところは完全な謝罪、完全な解決に落とさないところである。再びそれぞれが人生を歩もうとする中で再会する。

充は娘が万引きしたかもしれないと思うが、直人がセクハラをしたをした可能性も捨てきれない。だが、何度迫っても直人は「すみません」と土下座することしかできなかった。何もわからない。でも自分は悪いことをしてしまったのも事実。頑固親父が不器用ながらも謝罪をするのだ。そのアクションは「赦し」だ。他者に歩み寄る行為である。

ここ数年、SNSでは相手のメンタルが死ぬまで追い詰める動きが活発化している。悪人だとわかったらとことん追い詰め、「赦し」を与えない世界になった。確かに、誤った行為をしたのなら謝罪する必要がある。だが、その謝罪に対し赦しを与えず、執拗に追い込むのは社会をギスギスとしたものにしてしまう。吉田恵輔は2020年代の視点として「赦し」の側面を与えた。

アルフレッド・ヒッチコック『見知らぬ乗客』において、あれだけサイコパスなストーカーだった男が大事なライターを溝に落としてしまい、周囲の人を巻き込みながら必死にライターを取ろうとする様子に人間味を感じ思わず応援したくなってしまうように、古田新太演じる充の人間味に惹きこまれることで観客に「赦し」を擬似体験させるのだ。

一方で致命的なミスがあったのも確かで、あれだけ登場人物を不幸のトリガーとして渦に巻き込んでいったにもかかわらず、花音を轢いたトラック運転手の挿話がなかったのはマズかった。これがないことにより、あのショッキングな事故は映画を盛り上げる為だけの存在となってしまい下品だったと思う。

さてFilmarksは話に聞いていた通り映画製作に参入した。そのひとつが『空白』なのは幸先良い。吉田恵輔監督を是非ともベルリン国際映画祭やカンヌ国際映画祭で暴れさせてほしい。

※映画.comより画像引用