『マティアス&マキシム』ドゥニ・アルカンには手を出すな!

マティアス&マキシム(2019)
Matthias & Maxime

監督:グザヴィエ・ドラン
出演:ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス、グザヴィエ・ドラン、ピア・リュック・ファンクetc

評価:20点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

Mommy/マミー』でゴダールと共に第67回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞して以降、「ゲイ映画作家」という呪縛から抜け出そうと足掻き、毎回失敗に終わっているグザヴィエ・ドラン。彼の痛々しい足掻きには毎回失望させられる。だが、必ず新作は観に行きます。『マティアス&マキシム』は公開前から、ファントム・フィルムが『溺れるナイフ』のジョージ朝倉とのコラボで、同性愛を扱った映画にもかかわらず異性愛のイラストを、映画のポスターと同じ構図で描き大炎上する騒ぎとなった。ファントム・フィルムの謝罪文を読むと、『溺れるナイフ』と『マティアス&マキシム』双方を知っていること前提となっていることを言い訳しているだけにすぎず、同性愛と異性愛を同じ「愛」で括ろうとする「Black Lives MatterではなくAll Lives Matterでいいじゃん」と同じ理屈をこねくり回しているような気がして今後も何かやらかしそうな反省となっており冷めた目でみている。閑話休題、テンション低いながらYEBISU GARDEN CINEMAで観てきました。ここ最近のグザヴィエ・ドラン映画がダメな理由がよくわかる作品でした。

『マティアス&マキシム』あらすじ


「たかが世界の終わり」などで高く評価されるカナダの若き俊英グザビエ・ドランが、友情と恋心の狭間で揺れる青年2人の葛藤を描いた青春ラブストーリー。幼なじみである30歳のマティアスとマキシムは、友人の短編映画で男性同士のキスシーンを演じたことをきっかけに、心の底に眠っていた互いへの気持ちに気づき始める。婚約者のいるマティアスは、親友に芽生えた感情に戸惑いを隠しきれない。一方、マキシムは友情の崩壊を恐れ、思いを告げぬままオーストラリアへ旅立つ準備をしていた。別れが目前に迫る中、本当の思いを確かめようとするマティアスとマキシムだったが……。ドラン監督が「トム・アット・ザ・ファーム」以来6年ぶりに自身の監督作に出演し、主人公の1人マキシムを演じた。共演に「Mommy マミー」のアンヌ・ドルバル、「キングスマン ファースト・エージェント」のハリス・ディキンソン。2019年・第72回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
映画.comより引用

ドゥニ・アルカンには手を出すな!

本作は、初の英語映画『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』で大失敗に終わったグザヴィエ・ドランが、再びケベックに戻りフランス語で自伝的作品を撮った。カイエ・デュ・シネマでも語られている通り、雨の中洗濯物を片付ける人々を横移動で映し、そのままマティアスとマックスの情事を65mmで映す場面に全力投球しており、婚約者がいるマティアスと、バーテンダー修行のためオーストラリアへ旅立とうとするマックス人生の別れの尊さをガス・ヴァン・サントのタッチで描いた作品だ。『Mommy/マミー』の時以上に、ケベックにおけるフランス語と英語の役割を分析しているところが特徴的である。劇中ではフランス語と英語を織り交ぜて話す女に、「ちゃんとフランス語話せよ」と揶揄する場面があったり、マキシムがカフェで英語で電話をしていると「あんたどこに行くんだって?オーストラリア?その英語力じゃ通用しないよ。」と言われる場面、マティアスがクライアントと話す際「英語キツかったらフランス語でいいよ」と言われたりする場面がある。グザヴィエ・ドランはカイエ・デュ・シネマのインタビューの中で次のように語っている。

on critique constamment le langage des jeunes, on déplore la perte du français, on rejette ses évolutions et en même temps on refuse d’injecter de l’argent dans l’éducation.
訳:私たちは常に若者の言語を批判し、フランス語の喪失を嘆き、その発展を拒否し、同時に教育にお金を注入することを拒否します。
※カイエ・デュ・シネマ2019年10月号

ケベックでは、教育を巡って大人世代と若者世代の間で断絶が起こっており、若者言葉の嘲笑にフランス語が使われる。フランス語が流暢な純粋主義者(La puriste)は若者を嘲笑する時に、若者言葉としてのフランス語を使う。この世代間の断絶が、同じ若者の間で伝播していき、劇中の喧嘩の中心に配置されている。そして、その会話劇で参考にされているのがドゥニ・アルカンであると発覚する。劇中で、度々ドゥニ・アルカン映画を批判する場面があるのだ。

知らない方の為にドゥニ・アルカンについて語っておこう。カナダ、ケベック州出身のドゥニ・アルカンは『Volleyball』、『Parc atlantiques』といったドキュメンタリー映画を撮って下積みを行なっていた。1976年に初の長編映画『On est au cotten』でケベックの製織産業の労働状況を暴露し、カナダ国立製作庁から上映禁止処分が下りた。映画業界から干された彼だったが、1986年の『アメリカ帝国の滅亡』で国際的に返り咲き、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされる。ひたすらに、男と女の知識ひけらかしながら独自の性理論を語るシニカルな本作で評価されたドゥニ・アルカンはその後、2003年の『みなさん、さようなら』、2018年の『The Fall of the American Empire』とシリーズ化させていった。そんな彼にグザヴィエ・ドランがシンパシーを抱くのは必然であった。特に本作で彼の作風を踏襲するのは必須であった。何故ならば、ドゥニ・アルカンもドランと同じく、初の英語作品『Love and Human Remains』で大失敗しているのだから。
ドランは、本作を『みなさん、さようなら』の位置に捉え、ひたすら続くシニカルなトークからケベックに立ち込める世代断絶と、自らの過去を対峙させたと言える。表現主義からドゥニ・アルカン的会話による秀逸な映画を追い求めてここ数作やってきて、その集大成として本作が作られたのだ。しかし、どうだろうか個人的にドゥニ・アルカン映画が苦手ということもあるのだが、ドゥニ・アルカン以上に芸がないと思った。グザヴィエ・ドラン映画は常に若者の荒ぶる心をフレームに焼き付けている。悪く言えばギャーギャー叫びすぎなのだ。『Mommy/マミー』以前の作品は、その煩い叫びが耽美的画に閉じ込められていたので目を瞑ることができたし、効果的演出だったと思うのだが、その天下の宝刀を封印した状態で同様の映画を撮るとなると、そこには騒々しい虚無があるだけだ。将来が見えない若者たちの酒・薬・性だけの空っぽな人生の先にいくら希望を見出すラストを持ってきたとしても、映画全体に立ち込める騒々しさはマイナスの働きにしかならない。ドゥニ・アルカン的冷笑主義も、ドランの性格には合わないように見受けられ毒がない。故に単なる真似事にしか見えなかった。ドゥニ・アルカン映画を批判することでドゥニ・アルカン的冷笑主義を勝ち取ったと調子に乗るなと言いたい。

というわけで今回もイマイチな作品でありました。

まさしく、《ドゥニ・アルカンには手を出すな!》ですね。

※mubiより画像引用

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