ノマド: 漂流する高齢労働者たち(2018,春秋社)
Nomadland: Surviving America in the Twenty-First Century
筆者:ジェシカ・ブルーダー
訳:鈴木素子
第77回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞をはじめ、第45回トロント国際映画祭観客賞とアカデミー賞前哨戦で力強い存在感を魅せているクロエ・ジャオ監督作『ノマドランド』。この作品はジェシカ・ブルーダーがリーマンショック後増えている高齢の車上生活者を3年にも渡って取材した『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』の映画化である。なんとこの原作が既に日本で翻訳されているということで読んでみました。これは一言で語るならば、横田増生の潜入捜査をマクロな視点で捉えた代物といえる。日本では、コロナ禍で外国人労働者が確保できなくなったためか、コンビニや物流の現場で年金暮らししてもおかしくない人が汗水垂らして働いているのをよく目にするが、今の日本が向かっている先はこの本で書かれていることでありました。単に取材を通じて今を捉えているだけではなく、アメリカの社会システムの歴史から綻びを分析する衝撃的な内容でした。と言うことで今日は『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』について語っていきます。
『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』概要
一見、キャンピングカー好きの気楽なリタイア族。その実、車上生活しながら、過酷な労働現場を渡りあるく人々がいる。気鋭のジャーナリストが数百人に取材、老後なき現代社会をルポ。日本の明日を予見するノンフィクション。
※Amazonより引用
負を隠すポジティブワード
『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』でも語ったように、今アメリカでは急激に土地代が高騰しており、サンフランシスコのGoogleやFacebookといった一流IT企業で働いている人ですら車上生活を強いられている状態だ。これは確かにジェントリフィケーションによる影響なのだが、車上生活者の問題は想像以上に深刻なこととなっている。1930年代世界恐慌の際、フランクリン・ルーズベルトは国家が積極的に市場介入することによって経済安定を目指すニューディール政策を行った。そして、公的年金、個人年金、投資と貯蓄の3本柱がアメリカの年金システムを支えた。しかし、1980年代以降企業は年金システムを企業が財源を捻出する確定給付型から個人に依存させる確定拠出型(401k)へとシフトしていった。そして、リーマンショックにより投資していたものは紙くず同然となり、僅かな公的年金だけでは生活できなくなった。昔ながらのアパートや家を持つことは不可能となり、トラックやキャンピングカー、さらには中古のスクールバスで路上生活するようになった。今やインターネットが発達しているので、路上生活者は小さなコミュニティを作ったりしている。一方でAmazonのような大企業は季節限定の労働者《ワーキャンパー》を募集したりしている。キャンプ場では大自然をバックにした煌びやかな広告で労働者を集める。昨今、日本でも老人がAmazon倉庫で生き生きと仕事するCMが散見するが、同様に老若男女受け入れる体制と、明るい職場を強調する広告で労働者を募集するのだ。しかし、実態は凄惨なものだ。Amazonでは横田増生の『潜入ルポ amazon帝国』で書かれているように、1日20km近く歩かされるとのこと。手が腱鞘炎になったり、意識が朦朧としたり、鬱病になるような劣悪な環境で老いた車上生活者は生きるための日銭を稼いでいるのです。また、キャンプ場は「旅を仕事にしよう」などとポジティブなことが惹句となっているが、実際には時間外労働サービス残業が慢性的に続いており、キャンプ利用者が豪快に汚した焚き火を片付けたりと想定外の仕事ばかりだ。ビーツ工場では、豪速球で投げられるボウリングの玉を絶えず受け止めるように痛みを伴う。この単純作業重労働を、博士号を持っているようなインテリ高齢者が携わっていたりするのだ。
ノマドワーカー自体は1930年代からあった。しかし、かつてのノマドワーカーは人々の経済が安定すれば減少していった。人々はノマドから定住に戻っていったのだ。しかしながら、今は巨大企業が搾取し、労働者は死ぬまで低賃金で働かせられている構図。解消される見込みがないのだ。しかも、今のノマドにはプライドがある。「ホームレスと呼ばないで、ハウスレスと呼んで」と自分の境遇を否定したり、この生活を束の間の旅として自分を偽りながら生活しているのだ。本書に登場するリンダとラヴォンヌは『スローターハウス5』の一節から現代アメリカが置かれた状況を皮肉っている。
アメリカは地球上で最も豊かな国である。しかし、国民の大半は貧しく、貧しいアメリカ人は自分を卑下せざるえない状況におかれている。(中略)賢く、徳が高く、したがって権力や富を持つもの以上に尊敬される貧民の物語は、世界各国の民間伝承に見うけられる。しかしアメリカの貧民のあいだに、そのような物語は存在しない。彼らはみずからを嘲り、成功者たちを称揚する。
アメリカ人は、新自由主義の自己責任論に飼いならされ、成功できない自分は努力が足りないからだと思っている。だから、ホームレスであることを否定して必死にもがいている。そしてミニマリストと称して、ものがない状態を肯定しようとしているのだが、それは貧困家庭のある側面である「物が多い」状態よりも悪い状況に見える。消費社会に反発しているようで、僅かなご褒美を買う余裕すらなくなっているのだ。
さて、これは他人事だろうか?
私は背筋が凍った。数年前に、家を持たずゲストハウスやネットカフェを転々として生きる意識高い系の人のことを《ノマドワーカー》と肯定的な形でテレビの情報番組で紹介されていたからだ。日本はカタカナ用語に弱い、テレビで肯定的表現で単なる、現代のホームレスにもかかわらず、その本質から目をそらそうと別のラベルを当てはめる。まだネットカフェ難民の方が、本質を捉えているが、それすら隠そうとしている状況にこの本で立ち込める空気と同じものを感じた。さらに、本作で登場する人々が情報弱者であり、時たま重要な情報を見逃して焦る場面があるのだが、それは10万円の給付金が届くべき人に届いていない問題と重なるものがあった。
このような内容を中国生まれ、アメリカ育ちの女性監督クロエ・ジャオが映画化し、世界的に評価された。作品内容よりも社会的状況に左右されがちなアカデミー賞が本作を逃すことはないだろう。間違いなく作品賞、監督賞にノミネートされるであろう。でも、きっとこの作品は表面的情報で賞を獲るような映画ではないと思う。何より興味深いのが、彼女の過去作である『ザ・ライダー』、『Songs My Brothers Taught Me』は言葉よりも画で痛みや喪失を表現する監督だ。本書が説明的な内容であるので、いかに画として翻訳するのかに興味がある。
というわけで、是非とも『ノマドランド』前に本書を読まれることおすすめします。
※画像はIMDbより引用
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