【Netflixネタバレ考察】『もう終わりにしよう。』流行の映画にまで寄生する悪魔の自分探し

もう終わりにしよう。(2020)
I’m Thinking of Ending Things

監督:チャーリー・カウフマン
出演:ジェシー・プレモンス、ジェシー・バックレイ、トニ・コレット、デヴィッド・シューリス、ジェイソン・ラルフ、コルビー・ミニフィetc

評価:95点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

Netflixでチャーリー・カウフマンの新作『もう終わりにしよう。』が配信された。チャーリー・カウフマンといえば『マルコビッチの穴』や『エターナル・サンシャイン』の脚本で有名な監督である。彼の作風は毎回奇天烈であり、それは監督業に進出してから更に加速している。『脳内ニューヨーク』では、自分の理想の箱庭ニューヨーク作りに囚われた男の話だ。『アノマリサ』は周りの人の声がどれも同じにみえる鬱屈した男が唯一別の声に聞こえる女性に惹かれていくという内容をアニメで描いて魅せ世界を驚愕させた。彼の作品は、毎回奇妙に見えるが、実はテーマは一貫して《自分探しと他者の関係》を描いている。『マルコビッチの穴』では、ジョン・マルコビッチの体を一定時間乗っ取ることができる穴を通じて、人生に不満を持つ者が《他者》と言う仮面を被り自己実現しようとする。一方で、ジョン・マルコビッチ自身は《他者》に《自己》を妨害される。自己実現による影響を荒唐無稽に描いてみせた。『エターナル・サンシャイン』は、失恋の想い出を記憶から消し去ろうとする人が脳内で自分探しの旅をする中で、その想い出の重要さに気づく探しだ。『脳内ニューヨーク』は自分の理想を実現する為に《他者》のコントロールの極限を目指す話だし、『アノマリサ』は変化のない自分の人生に意味を見出す物語となっている。そして、例に漏れず『もう終わりにしよう。』も自分探しの映画であった。原作は、イアン・リードの同名小説である。原作未読ながら、明らかにチャーリー・カウフマンの映画がそこにありました。そしてパワーアップしていました。これはチャーリー・カウフマンなりの『8 1/2』であり、監督のこの5年で生み出された流行りの映画に対する憎悪を吐き出すものとなっていました。ただ、この映画の驚きは白紙の状態で観てほしいので、未見の方はNetflixで観てから読んでください。

ここからはネタバレ考察記事となります。

『もう終わりにしよう。』あらすじ


恋人との将来に悩みつつ、雪の日に辺ぴな農場に住む彼の両親を訪れた女性。だが、不思議な感覚に見舞われて、何が現実なのかわからなくなっていく。
Netflixより引用

1.車という空間について

車という空間は居心地の悪さを表現するのに最適な場所だ。ホテルや家の一室であれば、嫌な状況はわめき散らして逃げ出せば良いが、果てなき道を走っている最中にそれはできない。ましてや車は外から盗み聞きされる心配のないプライベートルームで、気まずさは距離感数十センチの中に押し込められるので一旦修羅場を迎えたら、時が解決するのを待つしかない絶望がある。

そして、そんな舞台装置の存在に気づいてしまったチャーリー・カウフマンはこともあろうことか2時間14分の大半を車の中での気まずい会話に割いているのだ。この時点でどうかしているのだが、彼は5年もの沈黙の中で腕を磨きに磨き上げていた。『アノマリサ』の辛辣さを100倍にしてみせた。人は、嫌な会話の流れがあれば「早く終われ」と思うことでしょう。ふっと他所を見て、時間を紛らわすのだが、脳内では複雑にモヤモヤを消化する思考活動が行われる。ジェイクの恋人(ジェシー・バックリー)は、これからジェイクの両親に会いに行く道中、「もう終わりにしよう。」としきりに考えている。既に倦怠期に陥っており、将来華やかな生活になるのが想像できないのだ。そんな彼女が「もう終わりにしよう。」と考えた途端、ジェイクは「んっ?なんか言った?」とまるで思考が見透かされているように会話に割り込んでくるのだ。気まずい、空間を打開する為にとりあえず二人は当たり障りのない会話をする。彼は「お腹空いていない?軽食食べたほうがいいんじゃない?」と心配するも、彼女はそれを跳ね除ける。そこで終わりにすれば良いのに、ジェイクはその話題を続けようとする。同様に、彼女が不自然なブランコを見たと言えば、「えっ見ていなかった」と言う。そこで終われば言いのに、ジェイクはそのブランコの存在する理由についてあれこれ言い始めるのだ。そんな不穏な空気に、時折分役とは無関係のお掃除おじさんの行動が挿入される。これはこれから会う人の目線なのだろうか?それは直ぐに裏切られ混乱を招きます。

さて、20分近い不穏な道中もやがて終わる。家に着くのだ。しかし、彼は何故か玄関に入らず、仄暗い羊小屋に案内する。死んだ子羊が放置されており、おまけに豚が蛆虫に食われて死んだ話をし始めるジェイク。ようやく応接間に案内されるのだが、一向に両親は階段から降りてこない。「あっ来た来た!」とジェイクが階段に行くのだが、数十秒経っても来る兆しがないのだ。そこへ犬がやって来るのだが、何故か犬は異常な程に首を降る。ようやく降りて来る両親だが、片一方はなんとトニ・コレットだった…。

あの『ヘレディタリー/継承』の顔芸おばちゃんの…。

お気づきだろうか?

2.醜態隠し続けた末路のメタファーとしての家

どうやらチャーリー・カウフマンはアリ・アスター的不穏さに挑戦しようとしているようです。そして、食事が始まるのだが、あれだけ話をしていたジェイクは険しい顔でだんまりを決めこみます。父(デヴィッド・シューリス)は偏屈で自分のこだわりを彼女にぶつけようとしてくる。一方トニ・コレット演じる母は、甲高い声、そして薄気味悪い笑みを浮かべています。そして、物語は急変する。何故か部屋に幼少期のジェイクの彼女と思しき存在が一人ポツンと立っている写真があるのです。それを彼は「これ僕だよ」と言い始めて、映画は混沌の門を開く。

家が時空装置へと変貌を遂げ、両親は若返ったり、老化したりするのだ。これはどういうことだろうか?

どうも、ここでいよいよカウフマン映画の本質が見えてくるのです。本作はカウフマンの解釈で描かれた『仮面/ペルソナ』だ。この一家は全て同一人物のある側面であり、それを近づけたり遠ざけたりすることで、人の内面にある醜態と向き合う過程を描いた作品と捉えることができる。ジェイクは優しくインテリな男であるが、家という自分の恥部が見える場では孤独で承認欲求に飢えた男という存在が浮き彫りになる。そして、その存在を利用してジェイクの彼女はヨイショするのだが、それはジェイクのコンプレックスが露呈した場合に起こってほしい最善の救いと言えよう。一方で、その救いは彼女が憎き両親に加担する可能性も孕んでおり、空間の中でジェイクを突き放す演出を用いてそれを示唆している。

ジェイクの彼女の行動に目を向けると、彼女には頻繁に電話がかかってくる。しかし、それを彼女は無視し続ける。その電話の正体ははっきりしないまま映画は終わってしまうのだが、これは間違いなく自分のコンプレックスを見られたくない反応だと言えよう。

このカップルのコンプレックスをひた隠しにしようとする努力は、二人の前にたち憚る醜態の塊とも言える両親を置くことで際立つ。姿を変えて、二人の前で自由に振る舞う彼らは、将来の二人を暗示しているようにみえる。醜態を隠し続けて孤独になるうちに、自らの醜態に気づけなくなってしまった存在である。外は吹雪が強まり、ドンドン車が雪に埋まっていく。そこからカフカ的引力に負けんじと脱出を試みる行動は、その一連の発想を繋ぎ合わせると腑に落ちるものがある。

そして嫌がらせかのように、とあるロバート・ゼメキス映画(タイトルはすみません分かりませんでしたこれはチャーリー・カウフマンのジョークのようです)のラストが挿入され、本作はロバート・ゼメキス映画ですよと言いたげな風貌をみせて行くのです。

3.チャーリー・カウフマンの嫉妬

さて、なんとか家を脱出した二人はまた数十分かけて車中の不穏な会話を展開するのですが、ここでチャーリー・カウフマンの愚痴がポロリが出る。ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』について議論する場面で「ジーナ・ローランズの演技はアカデミー賞受賞作品6本観ているぐらい疲れる、世間は評価するけどね。大げさで何も記憶に残らない。」と語る場面がある。それはチャーリー・カウフマンの大げさな演出を知っていれば「お前が言うか。」という話なのだが、それを踏まえて映画に戻ると、これが監督の嫉妬の塊であることが分かってくる。アリ・アスター的不穏な描写に始まり、家が豹変したり、廊下のシュールな演出はジョーダン・ピールを意識している。途中でエンドロールが来る展開は『バイス』出し、なんと言うことか『ラ・ラ・ランド』のラストを引用して、心の中の希望と現実の哀しみの狭間にあるものを捉えようとし始めるではありませんか。物理学を用いてファンタジーを語ろうとするのもマーベルやクリストファー・ノーラン映画の美味しいところへの憧れが見えています。チャーリー・カウフマンは『アノマリサ』で第72回ヴェネツィア国際映画祭で審査員グランプリを撮り、第88回アカデミー賞長編アニメーション賞にノミネートされる程の快挙を成し遂げているのだが、本作を作るまでの間に相当な嫉妬を溜め込んでいたのだろう。ここで大爆発させていました。

あまりにも露骨で醜悪な引用にもかかわらず、これが良い味を出しているのは、無論監督が長年一貫して描き続けたテーマが強固なものになっているからだろう。自分探しの旅の中で自分の醜態を見つめあい克己する過程を、家族、他者との同一化、舞台、幻覚といった様々な要素を用いて多角的にチクチクさしていく本作は、紛れもなく傑作と言えよう。チャーリー・カウフマンの健康が心配になるぐらい自己吐露の嘔吐物となった作品ですが、本作が次のアカデミー賞で脚色賞にノミネートされることを強く祈る。

誰かと話したくなったし、なんだか原作が読みたくなってきました。

※画像はIMDbより引用

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