【ネタバレ考察】『映像研には手を出すな!』ドラマ第壱話アニメ内アニメを実写内アニメに翻訳すること

映像研には手を出すな!(2020)

監督:英勉
出演:齋藤飛鳥、山下美月、梅澤美波、小西桜子、グレイス・エマetc

先日、大童澄瞳の同名漫画を鬼才・湯浅政明がアニメ化した『映像研には手を出すな!』の最終回が終わった。クリエイター賛歌でありながら、異様なまでに創作活動における時間と金銭コストリミットを意識させた作りは、本業でマネジメントを行い、趣味でブログ活動を行なっている私にとって生涯のバイブルとも言える作品になりました。原作漫画は全巻揃えているものの、アニメ最終回以降の物語が描かれている4、5巻を1週間に1話ペースで味わって読んでいる程にこの物語に魅せられてしまった。

そんな私が、本作の実写ドラマ化&映画化の話を聞いた時、それも乃木坂46のアイドル青春キラキラものとして実写化すると聞いた時、絶望の淵に立たされた。

タイトルにもあるではあるまいか!

《映像研には手を出すな!》

とはいえ監督が某福田雄一ではなく、英勉だったのは不幸中の幸いだったとも言える。英勉監督はかつて『ハンサム★スーツ』を手がけ、当時ライムスター宇多丸に酷評されて以降、映画ファンのサンドバッグ的監督になりがちな監督ですが、実は青春キラキラ映画を日本で一番真剣に向き合っている監督と考えています。『ヒロイン失格』では、現実世界だったら怒り出してしまいそうな程クレイジーなヒロインを、スクリューボールコメディのヒロインが如く疾風怒濤フレーム内を駆け巡らせることでコメディとしての面白さを最大限まで引き上げることに成功した。またそのアップデート版として描いた『未成年だけどコドモじゃない』(ブンブンシネマランキング2017年新作邦画部門第10位)では、失速する暇を与えないぐらいのスピードでヒロイン平祐奈をいかに可愛く面白く撮るかを徹底して画面に落とし込んでいた。反対に『3D彼女 リアルガール』では、この手の作品でフォーカスが当たらない、学校のウォールフラワーに着目し、ウォールフラワーが立派な花に生まれ変わる様を描き切った。

さて白羽の矢が立ったであろう企画『映像研には手を出すな!』実写化計画をどのように英勉監督が調理したのだろうか、原作やアニメ版と比較しながら分析していこうと思います。尚、原作やアニメ版のネタバレも込みで語っていくので、未見の方は要注意です。

【ネタバレ・アニメ&原作考察】『映像研には手を出すな!』これぞ最強のビジネス入門書だ!

大衆レベルに微分するということ

英勉監督の鋭いところは、サブカルチャー、オタクカルチャーといったものを、大衆レベルにまで微分し、万人の物語に落とし込むところだ。昨今の、日本のコメディ映画に欠けているところでもあり、業界人の内輪ネタを面白がれと観客に押し付けている作品とは違い、彼の場合は何がカルチャーを動かしているのかを捉えている。そして第壱話では、彼の拘りがユニークな原作の掘り下げに繋がってくる。

何と言っても、原作及び漫画版では描写不足であった、他の部活や生徒会の動きを初回から物語の中心に持ってきているのだ。

まさか、初回から生徒会と部活動の助成金を巡るディスカッション劇を中心に持ってくるとは思いませんでした。また、原作では炭水化物革命研と生徒会との闘いが描かれていたのに対し、ドラマでは応援部と生徒会との闘いに変わっている。原作では、多様性や最強の世界を意識するあまり囲碁サッカー部が出現してもおかしくない世界観になっているのだが、実写でそれを行なってしまうと途端に文化祭の茶番劇に見えてしまうだろう。また、原作を知らぬ者、特に乃木坂46目当てで観る人を困惑させてしまうし、現実世界にないような部活をここで提示すると文字情報で原作漫画級に説明をしなくてはならなくなる。

赤坂太輔の『フレームの外へ: 現代映画のメディア批判』が批判する、映像が持つ武器であるフレームの使用を諦めてしまうような文字情報に隷属的な演出は、個人的に大衆娯楽作品においてある程度必要なものであると考えている。それを最小限に抑えるための部活名変更は英断だったと言えよう。

英勉監督はポピュラーな部活動に毎回ユニークなエピソードを付加させ、今後《映像研》と驚くべき融合を成し遂げる予感を匂わせる。

応援部は普段応援されないような人たちを応援するのが使命です。だからこの部は大事なんですとプレゼンテーションを行う。それに対して生徒会は、我々が助成するのは応援にあたるが、そんな我々を応援するのは一体誰なんだとカウンターをかけて応援部を玉砕する。また、野球部は《野球観》の違いで外野と内野が喧嘩をしているのだが、外野サイドに立っているマネージャーが口出しすると「外野は黙ってろ!」と墓穴を掘り、沈黙してしまう。原作が持つ、議論の中で滲み出る矛盾をエンターテイメントとして描きこむ演出を的確に捉えながらアレンジを加えているのだ。

このように英勉監督は、誰でも『映像研には手を出すな!』の面白さに辿り着けるよう、微分に微分を重ね、本質を掴んだところでアレンジを加えるので原作&アニメの大ファンである私でもフラストレーションがたまらない仕組みとなっています。

ルッキズム問題とどう向き合うのか?

本ドラマを語る上でどうしても避けられないのは、ルッキズム問題だ。漫画やアニメにおいて、この手の青春キラキラものやサブカルチャーもののヒロインはどうしても美女になりがちだ。ましてや《アニメ》についての作品ならサークルの姫的感覚で美女を中心に添えがちだ。大童澄瞳の場合、それを真っ向から否定し、小柄で少年的な浅草みどり、背が高く高圧的な金森さやか、そして美少女モデルでブルジョワでありながらもその美や富を自ら行使することを否定し続ける水崎ツバメを主役にこの物語を描いている。そして物語の中に登場する生徒は、多国籍でありながらその国籍については一切触れない。男だから、女だからといったこともなく、人として愚直に向き合う姿が投影されている。

そんな物語を乃木坂46の齋藤飛鳥、山下美月、梅澤美波で構築しようとすること自体が大問題であり、実写版はルッキズム問題を無視した結果となってしまった。

しかしながら英勉監督は、こういった問題も別な角度から斬り込むことで、傷を最小限に留めている。

それこそが、他の部活動に焦点を当てることにある。映像研の側にある別の世界=部活を等価に描き、原作同様国籍やジェンダーを笑いのネタにしないルールを厳格に守ることで白紙に垂らされた朱から傑作を作ってやろうとする気概が感じられる。

またアニメ版を知る者からすると、違和感が出てしまう齋藤飛鳥の演技は、美貌を活かしつつも、彼女の美貌に似つかわしくない台詞をまくしたてるようにひたすら語らせることで、思春期、所謂厨ニ病特有の言葉と精神、あるいは言葉と肉体が乖離している様を体現している。明らかに適任者がいないであろう、浅草みどり像を齋藤飛鳥の特性を引き出しつつ魅力的に演出してみせるところがまた英勉らしい手腕と言えよう。

アニメ内アニメを実写内アニメに翻訳すること

さて、いよいよ一番の難関《アニメ内アニメを実写内アニメに翻訳すること》について語るとします。湯浅政明のアニメ版では、カット割でアニメが動くところを表現していた原作に対して、アニメの中の現実とアニメの中の虚構をグチャグチャに交差させることで、アニメの中であっても虚構の世界に興奮する人をアニメの中の人と同様の立場で享受することができた。これは湯浅政明が『マインド・ゲーム』から『ピンポン THE ANIMATION』、『夜は短し歩けよ乙女』で度々描いてきた、アニメの中で絵を歪ませることで別次元の虚構を生み出す技法の集大成とも言えよう。

では、実写ではどうなのだろうか?

キリル・セレブレンニコフが『Leto』で、アングラバンドの男の感情が高まると落書きが世界を侵食し始め音楽が流れる演出を通じて、ミュージカル映画におけるリアルを失う瞬間を強調し、尚且つ音楽が持つ既成観念や社会に対するアンチテーゼの要素を深層部まで掘り下げることに成功した。

英勉のドラマ版でも同様の手法が取り入れられている。3人が遂に集結し、最強の世界を目指してアイデアを交換する。すると、部屋は工場に様変わりする。本棚や机は、線描画で塗りつぶされ、虚構の脚立とリアルな脚立が共存する。やがて、その線が生み出す乗り物は、3DCGのような特撮のような曖昧さを持ったものとなり、白組よろしくな虚構を自由に飛び回る演出となる。

大童澄瞳一色で塗りつぶされた原作、湯浅政明タッチ一色で塗りつぶされたアニメ版に対して、様々なタッチが飛び交う世界を描くことで、『映像研には手を出すな!』に絡み付いていた蔓を薙ぎ払い、自由に空へと放つことに成功させたのだ。

最後に

まだ第壱話目なので、今後どうなっていくのか、あるいは映画版がどれほどのクオリティなのか(そもそも5/15に公開できるのだろうか?)まだまだ不安なところもありますが、一先ずは大満足である。ひょっとしたら一時期考えていた大根仁がメガホンを取るよりかずっと良い作品に化けるかもしれません。来週が楽しみで夜も眠れません。

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