【ネタバレ考察】『花に嵐』三次元を侵略するアニメ、興奮するボンクラ学生に邪魔入る

花に嵐(2015)

監督:岩切一空
出演:岩切一空、りりか(里々花)、小池ありさ、篠田竜etc

評価:100点


おはようございます、チェ・ブンブンです。

新型コロナウイルスの影響で色んな作品がネット配信されているのですが、岩切一空監督デビュー作の『花に嵐』がYoutubeで無料公開されました。『花に嵐』はPFF2016で準グランプリに輝き、映画関係者の間で話題になっていた作品。ブンブンも当時、観よう観ようと思っていたのですが、いつの間にか忘却の彼方に追いやられて、すっかり観ることを忘れてしまった作品だ。これを期に観てみたのですが、大学時代入学当時のフワフワした感覚をアニメ的演出で疾風怒濤のように演出しながらいつした全く別ジャンルの物語へと切り替わっていく驚異の作風に「何故、当時観なかったんだ?」と思う程に感激しました。ただ、本作はなるべく事前情報を入れないで観て欲しい作品且つ、ネタバレなしで魅力を語るのが困難な作品なので本記事はネタバレ考察として書いていきます。

『花に嵐』本編

『花に嵐』あらすじ


PFFアワード2016の準グランプリや日本映画ペンクラブ賞の観客賞、カナザワ映画祭2016の観客賞&出演俳優賞など、インディペンデント系の映画祭で受賞を重ね、独創的な作風で話題を集めた岩切一空監督による自主制作映画。大学で誘われるがままに映画サークルに入った“僕”は、部室にあったカメラを借りて映像日記を撮ることにするが、行く先々に一人の女の子が現れ、“僕”は彼女が気になり始める。そんな“僕”に彼女は、未完のままの映画の続きを撮ってほしいと頼んでくる。新しい環境で出会う女性に巻き込まれていく主人公の姿を、疑似ドキュメンタリーのような形式で撮影していく。
映画.comより引用

テン年代の大学生の生態系をアーカイブする

早稲田大学に入学した“僕”は新歓でお祭り状態となっているキャンパスの中にある映画研究会の野外ブースにやってくる。美人な先輩”ありさ”は”僕”にカメラを貸してくれた。ボンクラで右も左も分からぬ”僕”に優しくしてくれる彼女は、”僕”の手を引っ張り校舎を駆け巡る。民族楽器を弾き鳴らす者、パントマイムをする者が道を占拠し、混沌とした校舎。迷宮のように入り組んだ校舎を彼女はスルリスルリと掻い潜っていく。そしてカメラは託され、映画研究会上映ブースへ行くよう促される。彼女の言うがままに上映会に参加し、帰路へついた。これが4/1入学式の思い出だ。

「この世界には2種類の人間がいると言います。」
「一方は人生のある重大な局面について、鮮明に覚えている人間。」
「そして、もう一方は何もかも忘れてしまう人間。」
「これからお見せする映像は大学に入ったばかりの頃、僕の周りで起きたいくつかの出来事を撮影し、編集したものです。」
「しかし、今ではもう当時のことを思い出せません」
「今日を忘れないようにあるいは忘れてしまった昨日を思い出すために僕は映画を撮るのです。」

と語る冒頭から、本作はシネマ・ヴェリテ的な、撮影者と被写体との関係の変容を描いたドキュメンタリー風作品なのか思い、中々攻めた演出だと感じる。しかしながら、映画はどんどんと歪な方向へと妙なリアリティと共に転がっていきます。

4/7映画研究会部室。

“僕”の前に映し出されているのは、4/1とは全くオーラが違う”ありさ”の姿だった。暴力的な態度で、カメラの貸出票を書かせ、部費5,000円をふんだくる。”僕”には《脂》という渾名を押し付けてくる。荒れた部室、殺伐としたメンバーの様子。これはかつて大学生だった者が観るとどこかショッパイあの頃の青春を思い出すであろう。そして、4/1の日に映し出された初々しい映像に映っていたものの端々に翳りがあったことを思い出すであろう。下を向いていたあの女は誰か?など思いつつ、彼の止まる事なきカメラの行く末を見守る。

どうやら”ありさ”はサークルクラッシャーのようだ。飲み会でグイグイとビールを勧めてくる様、サークルのスター監督である古谷さんの映画に多数出演しているところから伺える。さて、本作におけるリアリティの話をしよう。本作はテン年代に大学生だった者にのってノスタルジーの塊である。あの頃の自分と重ね合わせることができる。そのリアリティはどこからくるのだろうか?例えば、サークルでの飲み会に注目しましょう。”僕”の分析によれば、大学2年生が盛り上げ、3年生は全体を取りまとめる。4年生は就活等があるので自由にやっているとのことだが、それはホンモノだ。そして、”僕”はサークルの飲み会でメンバーにインタビューを重ねるのだが、明らかに映画よりも出会いや呑みにしか興味なさそうな人が多い。これらの人から出てくる映画の感想はふわっとしていて、本当に観ているのかどうか分からないものだ。一方、古谷先輩は映画観賞会でギャスパー・ノエ作品と思しき(『エンター・ザ・ボイド』?)作品を女子の取り巻きに囲まれながら観賞し悦に浸っている。

部屋にはエドワード・ヤンの『恐怖分子』を意識したようにメンバー・花の写真が貼られている。この映画サークル内でもシネフィル/にわか以前の断絶が起きている感覚は、私がまさしく大学入学時に映画サークルを回って感じたあの空気感と一致する(尚、私は当時尖っていたので、大学の映画サークルは見放し、北欧研究会に入りました)。

『パラサイト 半地下の家族』演出を先駆けていた岩切一空

さて、そんなリアリティ青春ものは突如『パラサイト 半地下の家族』的修羅場修羅場の釣瓶打ち展開を迎える。サークル呑みの帰り道、道で吐いていた”僕”に手を差し伸べてくれた謎のメンバー花からのミッションで、古谷先輩の家2Fにあるとあるものを回収することとなる。しかし、彼女からの条件で、誰にもバレてはいけないと言われるのだ。恐る恐る彼の家に潜入する”僕”だが、明らかに攻略不能な建物構造になっていたのです。入ってすぐのところにリビングが広がっており、そこで10人近くのメンバーが映画を観賞していたり踊っていたりとお祭り状態になっていたのです。”僕”がオドオドしながらも頑張って2Fを目指す様は、『パラサイト 半地下の家族』で家から脱出しようとする寄生家族を彷彿とするスリリングさを持っている。

そして、そこから物語は歪み始め、花の強引な誘いで車強盗までやらされる羽目となるのだ。ジャン・ルーシュが『人間ピラミッド』でコートジボワールの学生を前に人種差別者を演じることとなった者が生み出す真実が歪められ虚構となっていく様を描いていたが、岩切一空は大学生映画のチープさを逆手に取りシネマ・ヴェリテの持つ虚実が曖昧になる不気味さを捉え、尚且つエンターテイメントとして魅力的な意表の突き方を実践した。

そして驚くべきは、クライマックス。花の生死の狭間を超えた復讐劇の末に、”僕”は宙を飛ぶのだ。それはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』ないし、アンドレイ・タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、あるいはアレクサンドル・ソクーロフ『日陽はしづかに発酵し… 』のオマージュなのだが、岩切一空は見事に自分のものとした。キラキラと光り輝く浜辺に降り立った彼の前には、映画部のメンバーがおり、花に対して花束を渡し、『新世紀エヴァンゲリオン』さながら「おめでとう」「おめでとう」と言っているのです。そして、浜辺の奥に彼女が去っていく。恍惚と光り輝きぼんやりと視界の中、虚実が曖昧となり映画は終わる。

この手の演出は湯浅政明監督作品や《物語》シリーズで見かける。つまりアニメ的演出だ。人間の心理的高揚が、ジャンルや世界観を超越していく快感がその演出にある。ただ、お金がない日本映画界では中々観られない演出である。それをインディーズ映画で、インディーズ映画が持つお金のなさを逆手に取ってサラリとやってのけてしまう姿は驚愕だ。

ひょっとすると『映像研には手を出すな!』をアイドル映画ではなく、純粋な青春キラキラ映画として撮るのなら岩切一空監督以外に適任者はいないのではと思う程にとてつもない才能を発見しました。無論、発見すべきは5年前だったのですが、今からでも遅くはない。私は岩切一空を追っていこうと思います。

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