『Electra, My Love』ミッドサマーのルーツか?開放と閉塞、その抑圧と爆発

Szerelmem, Elektra(1974)
英題:Electra, My Love

監督:ヤンチョー・ミクローシュ
出演:マリ・トゥルーチク、ギェルギ・ツセルハルミ、ジョゼフ・マダラスetc

評価:100点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

新型コロナウイルスのせいで次々と新作公開が延期となり、その影響かシネコンの大スクリーンを『ミッドサマー』が支配する世界線の2020年。その影響か、今やそこまで映画を観ない人の会話でも『ミッドサマー』観た?と出てくる程ポピュラーな作品となりました。2時間半にも及ぶホラー映画マニア、胸糞映画の新鋭が作った作品が人気になるとは凄い時代になったなぁと思う次第であります。

さて、ブンブンの界隈ではチラホラ、「『ミッドサマー』のルーツはやんちょー・ミクローシュにある説」が流布されている。ヤンチョー・ミクローシュ監督は日本ではあまり馴染みの無い監督且つ、ブンブンも『死ぬまでに観たい映画1001本』の『Még kér a nép』項目で見かけた程度の監督ですが、有識者曰く、タル・ベーラの長回しの原点で、儀式的描写がクセになるとのこと。実際に『ミッドサマー』はスウェーデンの話なのに、撮影はハンガリーのブダペストということもあり、東欧事情に詳しい映画ファンの脳裏にはヤンチョーの残像が見えるのだそう。

って訳で、ヤンチョー・ミクローシュ映画の中で短く面白く、『ミッドサマー』的要素があるという『Electra, My Love』を観てみました。

『Electra, My Love』あらすじ


It has been fifteen years since the death of her father, Agamemnon, and Elektra still burns with hatred for Aegisztosz, who conspired with Elektra’s mother to kill him.
訳:彼女の父アガメムノンの死から15年が経ち、エレクトラはエギストラの母親と共謀して彼を殺そうとするアイギストスへの憎悪を燃やしています。
IMDbより引用

開放と閉塞、その抑圧と爆発

荒野を『羅生門』よろしく朽ち果てた建物の背後を無数の馬が駆け抜ける。太陽光が靄に反射に、そこに土埃が重なることで幻想的な空間が画面を覆い尽くす。そして、Eエレクトラへカメラが近づいてくる。ガヤから「忘れなさい」と言われる彼女。彼女が歩くと、白い服を来た人が、回転し始める。横たわる人の隙間を歩くと、人の手が彼女を掴もうとする。そしてピタゴラスイッチのように、歯車と化した人や馬の狭間を歩みながら彼女は暴君アイギストスを倒そうと復讐に燃えるのだ。

本作は《儀式》を冷静に捉えている。

映画の中の儀式と言えば、騒々しく感情を揺さぶるイメージがあるが、本作では情報過多なまでに人の動きを取り入れつつ、徹底して儀式は静寂を保っている。しかしながら、本作は紛れもなく《儀式》を描いている。儀式とは、複数人が一つの方向に動くことで非日常を生み出す行為だ。それによる一体感は、どこか開放感を生むが、行動を制限されているため、閉塞感も共存している。その空間の中で、儀式を行いながら復讐劇を描くとどうなるのか?

復讐とは、抑圧されているものに爆発をぶつけるものだ。つまり閉塞から開放へ向かっていく行動である。開放の行動に見えて閉塞している儀式と合わせ鏡になるように閉塞から開放へ向かう復讐劇を閉じ込めることで、本作は見掛け倒しに思えて実は強固な構図を持った作品であることが分かるのです。

そして、長回しという特徴もその構図に説得力を持たせている。長回しが持つ自由さ=開放感の中でマスゲームの様な感情を失った人間の行動を捉えることで、この長回しですら機械的にコントロールされている、つまり閉ざされた世界側の存在であることを気づかせ圧倒されてしまうのだ。

そういった理論抜きにしても、この世のものとは思えない動きの中で強引に物語ろうとするパワープレイに驚愕させられます。

日本におけるヤンチョー映画群の中ではどうやらマイナーな部類らしいが、『ミッドサマー』が流行っている今だからこそ観た方が良い作品でした。

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