ラスト・クリスマス(2019)
Last Christmas
監督:ポール・フェイグ
出演:エミリア・クラーク、ヘンリー・ゴールディング、ミシェル・ヨー、エマ・トンプソンetc
もくじ
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。今、世界が困惑している映画がある。それは『ラスト・クリスマス』だ。ワム!の名曲をベースに『シンプル・フェイバー』、『ゴーストバスターズ(2016)』のポール・フェイグが映画化しました。しかし、海外での評判は悪く、ヴァラエティ誌のOwen’s Gleibermanは今年の年間ワーストに本作を選出し、
It’s supposed to be a Yuletide romantic comedy dunked in the spirit of George Michael, but taking the lyrics of the 1984 Wham! song (“Last Christmas, I gave you my heart…”) with a literalness that would scare a cardiothoracic surgeon, it turns into a movie cloying enough to make Michael cover his ears in his grave.
訳:それはジョージ・マイケルの精神に浸されたユレタイドのロマンチックなコメディであるはずですが、1984年のワム!の歌詞を取ります。心胸部外科医を怖がらせる文字通りの歌(「ラストクリスマス、私はあなたに私の心を与えた…」)は、マイケルが彼の墓で彼の耳を覆うのに十分な気味の悪い映画に変わります。
と語っています。
そんな本作を観てきました。これが歪な傑作でありました。但し、思いの外知ってないと分かりにくい話が多い映画なので一つずつ考察していこうと思います。
『ラスト・クリスマス』あらすじ
1984年の発売以降、クリスマスの定番ソングとして全世界で愛されている「ワム!」の「ラスト・クリスマス」をモチーフに、「ゲーム・オブ・スローンズ」のエミリア・クラークと「クレイジー・リッチ!」のヘンリー・ゴールディング主演で描いたロマンチックコメディ。ロンドンのクリスマスショップで働くケイト。華やかな店内で妖精エルフのコスチュームに身をまとうケイトは仕事に身が入らず、乱れがちな生活を送っていた。そんなある日、ケイトの前に不思議な青年トム現れる。トムはケイトが抱えるさまざまな問題を見抜き、彼女に答えを導き出してくれた。そんなトムにケイトは心をときめかせるが、2人の距離は一向に縮まることはなかった。やがてケイトはトムの真実を知ることとなるが……。脚本は「いつか晴れた日」でアカデミー脚色賞を受賞し、女優として本作にも出演するエマ・トンプソン。監督は「シンプル・フェイバー」のポール・フェイグ。
※映画.comより引用
ロマコメですら意味を持たせなくてはいけない世界で…
2010年代後半は、社会情勢の混沌により大衆娯楽映画であっても、政治的社会的メッセージが込められるようになった。『アナと雪の女王』あたりから、ディズニーは白馬の王子様系プリンセスストーリーを否定し、強い女性像を打ち出してきた。『ゴーストバスターズ』や『オーシャンズ11』など往年の大衆娯楽は、女性版としてリメイクされ、アメコミ映画の悪役には、思わず同情したくなるような設定が付与されてきた。まさか、ロマンティックコメディのヒロインにまでそういった意味づけが行われるとは思ってもいなかった。本作は予告編を観る限り、『ブリジット・ジョーンズの日記』等の作品を思わせるロマンティックコメディ、あるいはドジっ娘が映画をかき乱すスクリューボールコメディ、はたまた安心して観られるクリスマス寓話を思い浮かべる。
しかし、序盤から不穏な空気が漂うのだ。主人公のケイト”キャタリナ”(エミリア・クラーク)はロンドンへやってくる。彼女は中国人が経営するクリスマスショップの店員として働いているのだが、どうも落ち着きがない。すぐに電話をいじってしまう。気になることがあれば仕事投げ捨て外へと行ってしまう。おまけに、上司から戸締りよろしくと言われた1分後にはそれを忘れてオーディションへ行ってしまうのだ。幾ら何でも、ぶっ飛びすぎだろうと思っていたら、チラホラ《病気》という言葉が劇中に散見されるのだ。えっ?彼女は《ADHD》、《アスペルガー症候群》等の病持ち設定なの?と不安になる。ロマンティックコメディのヒロインは、自由に映画の中でドジをする、それでも前に進む姿に癒されるジャンルであろう。そんなヒロイン像にすら2010年代は、何かしらのラベルを貼らないと気が済まないのか。これって、『男はつらいよ』の寅さんを現代にコミットさせるべく、ADHD等病名を与えることに等しく、なんか窮屈な世の中になったなと感じてしまう。これこそ赤坂太輔が『フレームの外へ──現代映画のメディア批判』で危惧する、映画が文字情報に従属することなのではないだろうか?確かに、明確に病の名前は明かされない。しかしながら、病というラベルを貼らなければ物語ることのできない作品と捉えることができる。そして前半は、そのメカニズムにドン引きした。
しかし、これが映画を観ていくうちに不器用なまでに交通整理されていく本作全体に込められたメッセージに2020年代への希望の光が見えはじめ、その奇妙な作品に魅せられていきました。ここでは3つの視点から、本作の魅力を語っていく。
ポイント1.彼女は何故、特別であることを求めながら、病を拒絶したのか?
論理的思考で映画を観る人にとって不可解なのは、ケイトの発言が矛盾しているところである。一番奇妙なのは、彼女が親の心配を跳ね除けて病を否定しているにも拘らず、中盤では「心臓移植した時、私は特別だと思った。最初の頃はチヤホヤされ特別だと思った。それが普通になってしまい、嫌気がさした。」と特別であることに憧れを抱くのです。それでは、親の助言に従い、しっかり病気を診断してもらった方が良いのではないだろうか?
そこには複雑に絡み合う2つの心理が働いていると考えられる。
1つは、グレーゾーンの苦悩である。彼女は病気ではあるが、医師の診断を察するに、定期的なカウンセリングと薬を処方されているだけの存在だ。彼女の脳の病気は明確に診断されていない。これはADHDやアスペルガーの診断が難しいことによるグレーゾーンに位置する人特有の苦悩だと言える。何かしらの病名を与えられることで彼女は特別になる。そうすることで彼女の心の中にあるモヤモヤが晴れる。しかし、宙ぶらりんの状態で生活を強いられることから情緒不安定となる。そこには、病名を与えられることへの憧れがあり、誰かに病気であることを指摘されたい欲望でもある。それが、彼女が生み出した幻影トムが指摘するのです。ホームレス支援施設の前でトムは、「君は少し病気を患っているね」と語る。そして彼女は自分の内面を彼に吐露することで自分の中の膿を絞り出すのだ。
上記の羨望は、サブストーリーとして嫉妬による見下しをも描く。よくTwitter等で誰かが病気や、自分が弱者であることを告白すると、「アスペルガーはグレーゾーンが広いから簡単に決めるな」、「俺だって辛いんだ」みたいな呟きが飛び出してくる。それは、憧れに手が届かなかった自分に対して、簡単に(実は本人は相当苦労しているのだが)似たような問題を浄化させてしまう他者が存在することへ嫉妬である。その嫉妬は、厄介で自分を大きく見せようとする働きも備わっている。息苦しく、辛い人生を頑張っている自分を彼らにぶつけることでモヤモヤを解消しようとするのです。
彼女の場合、トムからホームレス支援施設のボランティアを誘われると、自分の弱さを隠して拒絶しようとする。その眼差しに、そういった当事者にしかわからないような心理メカニズムの緻密さを感じます。そして、彼女の成長のプロセスとして、自分の中の壁を取り外し、ホームレスに手を差し伸べる描写が入る。これは唸るものがあります。
しかもそれは、《HEAL THE PAIN(痛みを癒して)》を聴いて自分の傷を慰めて欲しいと願っていた者が、HEALER(癒す者)としてホームレスに手を差し伸べる物語となっており、ジョージ・マイケルの曲のさり気ない伏線にほっこりするのでした。
2つ目は、これが厄介なのですが親への反発であります。母親は心配性で、娘を病院に連れたがる。母は重度の心配性故、無意識に彼女が病気であることが安心となってしまう。それにケイトは反発しているのです。これが彼女の言動に一貫性がなくなる原因なのであります。
ポイント2.ブレグジットとケイトが本名を隠すことへの関係性
さて、本作では台詞で一箇所重要なキーワードが出てきます。それは《ブレグジット》である。2016年にイギリスが欧州連合離脱を決めたあの事件のことだ。これは今まで、ヨーロッパ統一を目指しユーロの導入、シェンゲン協定、難民問題の共有などを行い強調してきたヨーロッパ社会を崩壊させるきっかけとなった。結局のところ、欧州連合は移民問題や何処かの国の負債を押し付けあっているだけに過ぎず、もううんざりだというイギリスの怒りが現れた瞬間でした。
そのトリガーの一つが移民・難民受け入れ問題にあり、彼らを受け入れたがせいで自国の労働者の仕事を奪ってしまうというところが焦点にある。
だからケイトの母が、ブレグジットによるデモが行われていることに不安がる姿は、移民である自分ないし家族が街中で嫌がらせに遭うのではという危惧が反映されている。実際に、ケイトは本名がキャタリナにも拘らず、ケイトと呼んでと懇願するのには、日本における在日朝鮮人が金子とか良枝などといった日本の名前を貫き通しイジメ回避することに近い。
そして、直接的なシーンとしてバスの中でユーゴスラヴィア系移民がイギリス人に暴言を吐かれる場面が描かれるのです。
ポイント3.物理的すぎる曲の意味づけに大草原不可避
さて、本作の驚きは、あの原曲の意味を物理的に捻じ曲げてしまったことです。原曲は、失恋を歌った曲である。
Last Christmas, I gave you my heart(最後のクリスマス、私は君に心を与えたんだ)
と始まるこの曲が映画になると、文字通りトムが心臓をケイトに与える物理的な話になってくるのです。驚くべきことに、脚本はこの曲に忠実であって、鑑賞後に歌詞を読み込むと驚きに満ち溢れています。
I’ll give it to someone special(僕はそれ(心臓)を特別な人にあげるんだ)
I’m hiding from you and your soul of ice(僕は隠れているんだ。君の氷の心の影に)
My god(おお、神よ)
I thought you were someone to rely on(なんだか信頼できる気がしたんだ)
Me?(僕かい?)
I guess I was a shoulder to cry on(僕は都合の良い存在だったんだ)
どうですか、映画を振り返ってみると、確かに曲の内容と一致していませんか?おそらく、海外では酷評で日本では賞賛される理由は、原曲のあまりに物理的すぎる意味づけがそこまで気にならなかったせいだろう。個人的に、このぶっ飛んだ解釈は斬新で好きでした。
最後に
本作は『ゴーストバスターズ(2016)』で単なる性の裏返しをやっていたポール・フェイグの成長と意志を感じさせる作品であった。実は、単に弱き者に手を差し伸べる作品ではない。不器用な人と適度に距離を取りつつ手を差し伸べる現代的支援を描いた作品でありました。ミシェル・ヨー演じる中国人経営のクリスマスショップは、ケイトがどんなにミスしようと適度な距離を取り、心と心で会話できる時はしっかりと歩み寄ってみせる。ホームレス支援施設でも、暴言を吐くホームレスに対し、軽く流すことで自分が毒されないようにしている。イギリスはすっかり不寛容な社会になってしまった。世界も個人主義になってしまった。我々はマザー・テレサやガンジーではない。生理的拒絶反応を示す場合もある。それでもできる支援があるし、弱き者同士繋がれる手段はあるはずだ。
非常に不器用なプロットでありながら、そのプロット自体がそういった社会に対するアドバイスを担っており、個人的に全力で応援していきたい作品でした。
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