【アフリカ映画】『マカラ/Makala』コンゴにおける迂闊な値切りは命取りだ!

マカラ(2017)
Makala

監督:エマニュエル・グラス
出演:カブイタ・カソンゴ、リディ・カソンゴ etc

評価:75点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

特定の国の映画論を語る際に、問題となってくるのはその線引きである。純粋な日本人が日本で日本語を使って撮った作品だけが日本映画と呼べるのだろうか?グローバル規模で見れば、色んな国の資本が入ることは日常茶飯事。特に、映画製作体制が未発達のアフリカにおいては、ブルキナファソに本部をおいて、アフリカ全体の映画産業をコントロールを図っている他、フランスの資本が入ったりしている。アフリカ映画史の本を読むと、割と他国の資本が入った映画と、その国が自力で作った映画の線引きを行って定義しているところが多い。しかし、ブンブンはその線引きはできるだけ透明にした方がいいのではと思っている。

さて、カンヌに生まれたフランス人エマニュエル・グラスが故郷の映画祭カンヌ国際映画祭国際批評家週間でドキュメンタリー映画が史上初の最高賞を受賞する快挙を仕留めた『マカラ』を観ていきましょう。エマニュエル・グラスはアベル・フェラーラやマルセイユにある夜間避難所に関する作品など多岐にわたって取材を行うドキュメンタリー作家だ。そんな彼が今後の炭を売る青年にフォーカスを当てた作品が本作である。フランス批評家評判は概ね好評ですが、カイエ・デュ・シネマだけ、「被写体の裏にある《美しい物体》映画に組み込まれており、世界の惨めさの軽薄で非政治的な写真を提供しています。」と酷評しています。恐らく、そこにはカンヌが慢性的に持っているスノビズム。あるいは高級リゾート地で、貧困映画をありがたそうに観るカンヌ国際映画祭に対する嫌悪、あるいはカンヌ出身監督が貧困地域に浅い思想で立ち入る貧困ポルノ性に対する非難が込められているのだろう。

しかしながら、そんな懸念は杞憂。エマニュエル・グラスはしっかりとコンゴの《今後》とまではいかないが、コンゴの今をしっかり見つめたと言えよう。

『マカラ』あらすじ


アフリカはコンゴの辺境の地に暮らす青年は、家族に良き未来をもたらしたいと願っている。彼の持ち物といえば、自らの両手と周囲の森、そして鋼鉄の意志だけだ。労働の成果を売るべく街に向かうが、それは途方もなく過酷な道程であり、彼は努力の真の価値と夢の代償に気付いていく…。

都会で生活する者にとっては想像を絶する映像に唖然とするしかない、迫力と感動のドキュメンタリーである。コンゴで撮影経験のあった監督は、行商に向かう人々の姿に圧倒され新作の主題とすることに決める。彼らはいったいどこから来て、その積み荷の中身はいったい何で、それはいかに作られるのか?取材の過程で知り合った青年カブイタ・カソンゴの姿勢が気に入り、ともに映画の準備に入る。カブイタの日々を描く作品ではあるが、彼を一方的に撮ったわけではなく本作は彼と共同で作った作品だと監督は語る。自分で作った物を自分で売るという経済活動の最もシンプルな形が、いかに過酷でありうるか。カブイタの生き方を通じ、真の労働の価値について深く考えさせられること必至である。
カンヌ映画祭批評家週間作品賞受賞作。
※東京国際映画祭サイトより引用

コンゴにおける迂闊な値切りは命取りだ!

青年は、森で巨木を切り倒そうとする。斧でカンカン、切れ込みを入れていくが、なかなか倒れない。水分補給をしながら、ひたすら切り込み、ようやく倒れる。彼の労働は過酷だ。足は痛み、ヘトヘトになりながら炭を作る。そして大量の炭を自転車に積み込み、50km先にある町へ向かう。その道中は過酷だ。暑く、坂道もある。道に自転車を止めて休憩していると、車の風圧で自転車が倒れてしまい、炭が飛び散る。『DEATH STRANDING』における積荷をぶちまけた際の絶望感は現実にも存在しているのです。

しかし、ここでめげたら家族に未来はない。彼はなんとか町にやってくる。ここで恐ろしい世界が幕開く。彼が炭売りを開始すると、女性がやってきて値切り交渉を始める。「5,000?高いわよ。まけてよ。」とせがむのだ。まけたら負けだと彼は「じゃああっちに行けよ」と追い払うのだが、しつこく女は「私に売ってよ。」とつきまとう。遂に根負けして4,500で売ろうとした途端、無数の女性が群がり、「私は?3,000で売れよ」と罵声を浴びせまくるのです。よく、アフリカ駐在の日本人が口々に、安易な施しはするな。特に金を与えるなと言う。それは本当であった。コンゴのこの町において少しの値切りも命取りなのだ。彼は、ボロボロになりながら祈る。果たして彼に明日は来るのか?

監督は何もできぬまま映画が終わってしまう。それはある意味正しい。そこで施しをしてしまったら、青年をあの女たちと同類にしてしまう。安易な支援は彼の未来すら汚してしまうのかもしれない。本作は、先進国からみて国際支援とは安易な行動で実現できるものではないことを教えてくれる。本作の恐怖描写から、コンゴ社会全体の国民性たるものを変えなければ何も変わらない、しかしそれすら倫理的に可能なのか?そもそも実現可能なのか?という果てしなき難問を突きつけた。そうそう答えなんか出てこないし、出してはいけない作品でありました。

大学の授業で学生に観せてディスカッションするに適した作品と言えよう。

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