サタンタンゴ(1994)
Sátántangó
監督:タル・ベーラ
出演:ヴィーグ・ミハーイ、ホルヴァート・プチ、ルゴシ・ラースローetc
もくじ
- 1 『サタンタンゴ』あらすじ
- 2 『サタンタンゴ』は結局どんな話?
- 2.1 (第1部)第1章:角と丸の断絶
- 2.2 (第1部)第2章:働いたら負け
- 2.3 (第1部)第3章:酔っ払い先生は民を見る
- 2.4 (第2部)第4章:荒涼とした食事処の空間について
- 2.5 (第2部)第5章:不思議の国のアリスはチェシャ猫を殺す
- 2.6 (第2部)第6章:人は踊り続けるのさ、朽ち果てるまで!あっ!パンおじさんだ!
- 2.7 (第3部)第7章:教祖誕生
- 2.8 (第3部)第8章:Take me home, country roads
- 2.9 (第3部)第9章:ボンバーマンは爆薬を欲する
- 2.10 (第3部)第10章:教祖は激怒した
- 2.11 (第3部)第11章:一方その頃、警察では…
- 2.12 (第3部)第12章:円環は閉じたようだ…んっ?本当に?
- 3 最後に
評価:70点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
今年の初めから楽しみにしていた作品がある。それは『サタンタンゴ』だ。『死ぬまでに観たい映画1001本』に掲載されている鑑賞難易度Sランクの作品。その際たる原因は、上映時間が7時間というところにあります。長年観たいと思っていた作品が、なんと日本で一般公開されたのです。イメージフォーラムは、割と3時間超えの作品を上映してくれるのですが、ここに来て本気を出しました。しかも、面白いことに連日満席が相次いでいるとのこと。1日前に予約購入しようとしても満席で取れない事態まで発生しているこの魔の作品挑戦してきました。タル・ベーラとブンブンの相性は最悪で、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』も『倫敦から来た男』も『ニーチェの馬』も乗れなかった男。しかしながら、『サタンタンゴ』はなかなか面白く楽しむことができました。って訳でネタバレあり考察をしていきます。
『サタンタンゴ』あらすじ
2011年の「ニーチェの馬」を最後に56歳で映画監督からの引退を表明したハンガリーを代表する巨匠タル・ベーラ監督が1994年に発表した作品で、4年の歳月をかけて完成させた7時間18分におよぶ長編大作。ハンガリーのある田舎町。シュミットはクラーネルと組んで村人たちの貯金を持ち逃げする計画を企てていた。その話をシュミットが彼の女房に話しているところを盗み聞きしていたフタキは、自分もその話に乗ることを思いつく。その時、家にやって来た女は「1年半前に死んだはずのイリミアーシュが帰ってきた」と、にわかに信じられないことを口にする。イリミアーシュが帰ってくることを耳にした村人たちは、酒場に集まり議論するが、やがてその場は酒宴となり、いつものように夜が更けていった。そして翌日、女の言葉通りにイリミアーシュが村に帰ってきた。日本では映画祭などでの上映のみだったが、2019年にベルリン国際映画祭フォーラム部門で初披露された「4K デジタル・レストア版」で19年10月に劇場初公開される。
※映画.comより引用
『サタンタンゴ』は結局どんな話?
7時間、3歩進んで2歩下がるを繰り返す本作は結局何を言わんとしているのだろうか?
それは1946年から1989年まで続いたハンガリー社会主義時代に対する批判と言えよう。搾取する側/される側の交差と絶望的なまでの荒涼、退廃が紡ぎ出す寓話は一般的に社会主義国の中では穏健派とされて来たハンガリーの暗部にスポットライトを灯すこととなっている。
冒頭、小屋から牛が現れる。交尾に明け暮れる牛、自由気ままに遠くへ行こうとする牛、多種多様だ。しかし、牛は謎の引力によって一つの方向へ歩み出す。カメラはじっくりとじっくり、建物の影から牛を追う。群れから離れ、遠くにいた牛もやがて一つの方向に向かって収斂していく。この映画が、移動と収斂の物語であることを暗示する、言葉なき情景から《悪魔のタンゴ》は刻まれ始める。
シュミットとクラーネルは村人から金を巻き上げて夜逃げすることを考える。それになんとかしてフタキは加担しようとする。搾取する側に回ろうとする。一方で、村の少女は友人に「金のなる木」を作るから金を貸してくれと言われ、一緒に森に埋めるのだが彼に奪われてしまう。彼女はさらに弱い存在である猫を虐めているのだが、より大きな存在に全てを奪われ自殺してしまう。彼女の葬式が行われるところに、死んだはずのイリミアーシュが現れ、まるで復活したイエスキリストのように振る舞い言葉巧みに村人を支配し、全ての財を奪い去ってしまう。
これは、搾取する側に回ろうとして、結局自分より大きな存在に搾取されてしまう側を描いている。
社会主義国故、やる気を失った者は「働いたら負けかな」と思い、なるべく高い地位を目指す。酒に溺れ、退廃的な狂乱に身を投じる。そんな彼らに未来はない。結局のところ、権力者に全てを奪われ、なけなしの配給で我慢するしかない。そこに《移動》の問題を持ち込むことで社会主義時代にヨーロッパ社会主義国が争奪戦を行なっていたロマの存在を重ね合わせる。当時の社会主義国ではロマを労働力にするため、囲い込みを行なっていた。自分の国から出ないように移動禁止令を発令していたのだ。イリミアーシュは素晴らしき楽園作りを公約に掲げ、村人から全財産を奪う。村人は雨でドロドロぐちゃぐちゃになった轍を歩み、たどり着いた新天地は凍えるように寒い。楽園とは程遠い道中に、怒りを露わにするのだが、イリミアーシュはこう語る。
「いいぞ、金は返そう。信頼と根性のない奴はここでサヨナラだ。君らにはもう関係ないことだ。」
強烈に突き放すことで、彼らに未練と罪悪感を抱かせ、再び彼の引力に寄せられていくのだ。この権力者の引力、生活を人質にとった話術で囲い込む厭らしさは、ハンガリーにあったであろう閉塞感を想起させる。仕事場はとっちらかり、ダラダラと行われ、人々は荒涼とした大地でクズになる。そんな世紀末の側面をじっくりじっくりと投影してみせたのだ。そこに流れる独特のリズム。終始仄かに流れる時計(?)のトタッ、トタッという音、鐘のグォーン、グォーンという音と角ばったもので断絶された空間に配置される丸みを帯びた人間という極めて絵画的構図の《汚》の美しさも重なり、個人的に楽しむことができました。
さて、次からは各章について分析していきます。ブンブンのプチタイトルも添えて考察していくぞ。
(第1部)第1章:角と丸の断絶
第1章では、事の発端であるシュミットとクラーネルの夜逃げ作戦が描かれるのだが、全ての映像が絵画のようなタッチとなっている。一般的に名画では、四隅に強調するものを置かない。そして、その画の中で最も強調するところに光を与えるというのが定石となっている。そして、建物や家具の境界線を使って、人々の目線を強調したい対象に向かわせる。そういったギミックを映画の中で完璧にやっているので、観ていて心地いいものがある。
例えば、ファーストカットの牛描写のラストに注目していただきたい。画面の中央に、建物とそれ以外の境界線が来るようにカメラは調節されており、その中心に牛の群れを配置している。そして建物の屋根が矢印のように牛に収斂していくので、観るものは奥にある牛が気になってしょうがないのだ。また、第1章では《角ばったもの》と《丸みを帯びたもの》のコントラストで強調を表現する絵画的側面からみてテクニカルな手法を採用している。女性が股を洗う場面。机やラジカセを始め、画面は《角ばったもの》に満たされているのだが、その中央にタライと女性という《丸みを帯びたもの》が配置されている。その強烈な差によって、この女性の仕草が脳裏に焼きつく。ハンガリー田舎町の肖像画を描く上で、圧倒的インパクトで迫るのだが、そこには絵画から来る強調技法が惜しみなく使われていて、一気に観客の心を鷲掴みにするのだ。
(第1部)第2章:働いたら負け
第2章では、2人の男が役所に行き、警察から説教を受けるというパートとなっている。これは本作唯一のギャグパートになっており、警察が「なんで働かないんだ?十分な期間があったのに?」と言うと、「働いたら負けかな」と返す。潔白だよと言い張るが、警察は「前科多すぎなのでは?」とドン引きしたりしてその掛け合いが面白いこととなっている。そして終いには、男二人、バーでボンバーマンになる宣言をして、店員・客諸共凍りつかせるのです。
この凍りついた空間のカッコ良さは感動を覚えます。
(第1部)第3章:酔っ払い先生は民を見る
『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』回。ひたすらに巨漢な先生がハンガリーの蒸留酒《パーリンカ》を嗜みながらフタキに想いを寄せる回。覗き見趣味のある人にとっては最高ですが、そうでなければ1時間以上に渡って延々と呑み続ける先生にげんなりするかもしれません。(第2部)第4章:荒涼とした食事処の空間について
10分間のインターミッションを経て開幕する第2部。ここでは時計(?)のトタッ、トタッという音に合わせて、開店前の食事処に段々と人が集まって来る様子が描かれる。そこに第2話のラストで登場した髭ズラのおっさんが現れる。またバーに《嘆き》が来るわよと伏線が張られます。実際には《嘆き》というよりかは《狂乱》が来た事を悟るのはあと1時間後の事でした。
(第2部)第5章:不思議の国のアリスはチェシャ猫を殺す
正直、第5章を受け入れられるかどうかで『サタンタンゴ』の評価が決まると言っても過言ではない。それだけ問題作だ。少年と少女は林の中で金を埋める。少年は、「金のなる木を作るから、有り金出して」と言い、穴に埋めます。そして少女は屋根裏の秘密基地に帰る。そこにいる猫は急に、彼女から逃げる。どうやら粗相をしてしまったらしい。怒った彼女は猫をイジメ、挙げ句の果てに毒薬で猫を殺してしまう。実は猫殺しが趣味な彼女であることが発覚するのだが、そのしっぺ返しだろうか?彼女の埋めた金は全て少年に奪われてしまう。そして彼女は猫を殺した毒薬で自殺することにする。
ラース・フォン・トリアーやギャスパー・ノエ、ミヒャエル・ハネケ、アレックス・ロス・ペリーに慣れ親しみ、善悪の彼岸で悪魔的才能を振るう映画を得意とするブンブンであっても流石に、この1時間以上続く拷問パートは精神的にキツいものがありました。猫好きということもあるのだが、それを差し引いてもこのパートは受け入れがたいものがある。確かに、このパートは映画全体のテーマを1時間に凝縮したものがある。搾取する側とされる側の多層的構図を言い表している。しかし、わざわざ中盤で、そのテーマを要約する必要はあったのだろうか?せっかく、7時間じっくりじっくりと、ハンガリーの悪、この世の悪を描こうとしているのに、このパートだけ直ぐに答えを導いていて、それが全体に不協和音を響かせていた。これはよくない。
また、少女は思わぬしっぺ返しに自分の罪と対峙し、贖罪の意味を込めて自殺するのだが、死をもって罪を償うという描写があまりに軽薄で、あれだけ直ぐに殺さず猫を傷つけていたのに、そういった苦痛を回避して贖罪する少女の姿に胸糞悪さを感じました。
(第2部)第6章:人は踊り続けるのさ、朽ち果てるまで!あっ!パンおじさんだ!
そう不満を募らせたブンブンでしたが、第6章で持ちこたえます。あの髭ズラのおっさんが食事処でボクトゥトゥ、ボクトミシュ(歩き続ける、歩き続けるのだ)、無煙火薬、黒色火薬が!と連呼しまくる前半。そして後半、エンドレスに続く破壊的なダンスの悪魔的魅力に、心がウキウキさせられます。何故か、画面にはパンを頭に乗せ、右往左往するおっさんが見え、音楽を止めるな!ダンスを止めるな!と言わんばかりに朽ち果てるまで踊り続ける様は、『CLIMAX クライマックス』好きにはたまらないものがありました。この一見楽しそうに見えるが、退廃しかない情景は社会主義時代のハンガリーに対する皮肉が込められていると言えよう。(第3部)第7章:教祖誕生
30分の休憩を経て、描かれる3時間は、大きな搾取の話だ。
狂乱の末、村に突如として死んだはずのイリミアーシュがやって来る。少女の身代わりとして。まるで復活したイエスキリストのように現れた圧倒的カリスマ性を持つ男イリミアーシュは長々と演説をして、村人から金を全て巻き上げてしまうのだ。当初、村にあった金強奪、夜逃げ話も全て水の泡になってしまうのだ。搾取する側も、より大きな存在に搾取されるという様子が第5章よりも大きな搾取が描かれ、伏線が層となって見えてくる快感を観客に与える。もうここまでくれば、観客はトランス状態だ。3時間もあっという間になってくる。
(第3部)第8章:Take me home, country roads
第8章では村を捨てた村人たちが、イリミアーシュの指示で新天地を目指す道中が描かれる。雨で道が泥濘み、寒い中行脚する村人たちの過酷さを極限まで削ぎ落としたセリフで描かれる。そこにはロマの、移民の移動の歴史が重ね合わさっているように見えます。
(第3部)第9章:ボンバーマンは爆薬を欲する
一方、イリミアーシュは爆薬と村人を乗せる車をゲットしにダイナーに入ります。そこで豚足入り豆スープを飲みながら悪魔の取引をする。豚は貪欲を象徴する。イリミアーシュの貪欲な搾取の構造がここにて明らかにされていくと言えよう。
(第3部)第10章:教祖は激怒した
村人は怒る。寒くて過酷な道中の涯てに楽園はないのでは?とそれに対してイリミアーシュは「金は返すよ。信頼と根性のない奴は出ていきなさい。」と言う。そこに籠められた蔑視の視線が、村人からさらなる信頼を得ることに繋がる。よく日本の学校では、授業を乱す生徒に対して「嫌だったら教室から出て行きなさい」と言う。そこの空間にある嫌な空気を利用して生徒をコントロールするのだが、全くそれと同じことをイリミアーシュはやってのける。この話術の狡猾さに唖然とさせられる。
(第3部)第11章:一方その頃、警察では…
こうして7時間近く描かれてきた《搾取》の物語は急に失速する。第2章の警察官と思しき人物が詩的な報告書をタイプする様子を長回しで撮るパートによって。フタキの生き様を物語の外側から捉えようとする様を、最終章と併せて描いていくのだが、完全に蛇足になってしまった。正直10章でフタキがイリミアーシュに幻滅して去っていくところで終われば良かったのに、無駄に引き延ばしている感じがします。
(第3部)第12章:円環は閉じたようだ…んっ?本当に?
そして物語は第3章のおっさんが、最後の力を振り絞って教会に行き、何かを悟ったかのように、自宅の窓を木の板で封鎖して終わる。「円環は閉じましたよ」と言いたげだが、AHOL?(どこ?)と私は問いたい。『ニーチェの馬』同様、遠くに行ってしまった物語を強制的に脇に転送した感が否めず、やはりタル・ベーラだなと思うところがありました。この最後2章の蛇足感と5章がなければ文句なし満点な作品でありました。最後に
通常、この手の映画は映画祭でしか上映されません。映画館にとっても箱が回せないこともあり、コケた場合のリスクがあまりに大きい。しかし、『ハッピーアワー』『収容病棟』を始め、長年超絶長い映画を上映し、観客を育ててきたイメージフォーラムだからこそ今回の上映は実現したのでしょう。まずは配給会社のビターズ・エンド及び、イメージフォーラムに感謝したい。そして本作は家で観たら絶対に怠惰して観てしまうであろう。映画館で多くの同志と共に駆け抜けた濃密な時間はかけがえのない経験であり、決して家では味わうことができません。イメージフォーラムは本作を観にきた観客に4時間の映画『象は静かに座っている』の挑戦状を叩きつけた。今年のイメージフォーラムはキレッキレである。
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