もしもの愛(2026)
原題:가능한 사랑
英題:Possible Love
監督:イ・チャンドン
出演:チョン・ドヨン、ソル・ギョング、チョ・インソン、チョ・ヨジョンetc
評価:75点
第83回ベネチア国際映画祭にてイ・チャンドン8年ぶりの長編新作『もしもの愛』が審査員グランプリを受賞した。一部劇場にて10月23日(金)より公開、Netflixでは11月6日(金)より独占配信となる本作を試写で一足早く観させていただいたのでレビューしていく。なお、本作はネタバレNG箇所の多い驚くような話運びの作品なため、作品を取り巻く文脈をメインに語っていくとする。
まず、本作は驚くべきことにクシシュトフ・キェシロフスキの伝説的ドラマシリーズ『デカローグ』のリメイクプロジェクトのひとつである。今年のカンヌ国際映画祭でアスガー・ファルハディ『Histoires parallèles』が《ある愛に関する物語》のリメイクであることは多くの人を驚かせたが、実はシリーズプロジェクトだったようだ。
とはいえ、『デカローグ』を観たことがある人なら真っ先に思うだろう。
「どの作品のリメイクなんだ?」
本作は『デカローグ』の持つ、市井の人間に対する葛藤の眼差しを継承しつつ『バーニング 劇場版』における主題を深化させた内容といえる。
女性ドキュメンタリー監督のイェジは夫と共にある夫婦と出会う。夫ホソクは最近、会社を解雇されてしまった。監督夫婦との会食は一見すると楽しいものである。特にイェジと妻ミオクはすぐさま親しい関係となる。しかし、大黒柱としてのプライドがあるホソクはこの状況に耐えられない。ぐっと堪えている。ドキュメンタリーの舞台となっている工場では、大規模な人員削減により労働者との摩擦が起きている。イェジは労働者へ歩み寄ろうと撮影を始めていくのだが、思わぬ事態に発展してく。
近年、韓国映画界は格差問題をテーマにした作品を放っている。ポン・ジュノは『パラサイト 半地下の家族』にて、古典的なテオレマもののプロットを踏襲しながら富める者からは見えない貧しき者の執念を階段の死角といった物理的なイメージでもって表現していた。パク・チャヌクは、ドナルド・E・ウェストレイクの小説「斧」を映画化した『しあわせな選択』にて、韓国社会の過酷な事情をシニカルに訴えかけた。
また、この手の話でいえば、年始にユーロスペースで上映されていた『ただ、やるべきことを』も記憶に新しい。こちらの作品は、不況によりリストラと廃業が相次いだ造船業を舞台に従業員を解雇しなければならない人事チームの社員たちの決断を描いた作品となっている。
イ・チャンドン監督も『バーニング 劇場版』で格差社会を描いたが、社会情勢がますます悪くなっていることを意識してか、今回はストレートに描いていた。
『もしもの愛』あらすじ
「ペパーミント・キャンディー」「シークレット・サンシャイン」などのイ・チャンドン監督の8年ぶりとなる長編作品で、思いがけず出会った2組の夫婦の姿を通して人間のもろさと再生を描いたヒューマンドラマ。
会社を解雇されたホソクと妻ミオクのもとに、ドキュメンタリー映画監督のイェジとその夫サンウが取材に訪れる。撮影を進めていくうちに2組の夫婦の生活は重なり合い、それぞれの日常に潜む歪みや欲望が静かに浮かび上がる。彼らはずっと胸の奥に秘めてきた思いと向き合いながら、揺れ動く心の深部へと踏み込んでいく。
ホソク役を「ペパーミント・キャンディー」のソル・ギョング、ミオク役を「シークレット・サンシャイン」のチョン・ドヨンが務め、「君の誕生日」「キル・ボクスン」などに続き4度目の共演。イェジとサンウの夫婦を「パラサイト 半地下の家族」のチョ・ヨジョンと「密輸 1970」のチョ・インソンがそれぞれ演じた。脚本には「バーニング 劇場版」でもイ・チャンドン監督と共同脚本を手がけたオ・ジョンミが参加。2026年・第83回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞。Netflixで2026年11月6日から配信。それに先がけて26年10月23日から一部劇場で公開。
シン・デカローグ:ある連帯に関する物語
『バーニング 劇場版』は、村上春樹「納屋を焼く」の映画化でありながら、大胆な換骨奪胎でもって格差社会の物語へと落とし込んでいる。職に恵まれずバイトで食いつないでいるジョンスの前に、裕福な男ベンが幼馴染のヘミと共に現れる。ベンは無意識にジョンスのすべてを奪っていく。
たとえば、《ネコ》がある。ヘミの家にジョンスが上がり込む場面がある。彼女は「あたし、ネコを飼っているの」という。しかし、彼には見えない。そう、彼女のアパートではネコが飼えないのだ。だからイマジナリー・ペットとして可愛がるしかない。そして、ジョンスも空想上のネコに溺れるようになる。しかし、物語終盤でベンがネコを飼い始める。ジョンスにとって屈辱である。そして教養面でも、ジョンスはフォークナーを読んでいるのだが、ベンもまた読んでおりどこまで行ってもベンの上に立つことができない。そして、ベンが語る秘密「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」に翻弄されながら《大いなる渇き(Great Hunger)》を増幅させていく。
『バーニング 劇場版』の場合かなり暗喩たる描写が多かった。一方で『もしもの愛』の場合、ジョンスとベンの関係性を映画監督夫婦と解雇された男の家族の構造へ位相をズラし、現実的な物語へと落とし込んでいる。そしてこれは「映画祭映画を撮る監督が背負う業」を内省するものとなっている。
映画祭映画を撮る監督の多くは、映画を通じて問題を訴え社会を変えようとする強い意志がある。特にドキュメンタリー監督はその傾向が強いだろう。イェジは地方都市の工場で起きているリストラとストライキに関心があり、労働者へと歩み寄ろうとしている。労働者と同じ立場になろうと、食事を共にするような間合いの詰め方をする。ただ、これは無意識に相手の領域に土足で踏み入れるベンと同類の行為でもある。そして、こうした罪深さはカメラの外側で起きていることを映画は告発する。
『もしもの愛』は二組の夫婦、カメラの内側と外側を交差させることでメディアによって歪められたものやメディアが取りこぼしてしまうものに鋭い眼差しを向ける。そして、安易な「メディア=悪」の方程式に落とし込んでいない点が重要である。
たとえば、イェジが工場内を撮影する場面。一通り工場内の撮れ高を確認し、撮影を終了しようとする。すると、従業員のひとりがこことぞばかりに労働組合を作ると言い始める。その様子を撮ったら、監督としても撮れ高になるし、従業員としても良い革命になると提案する。そして、社長室に殴り込み労働組合を作る場面を撮影する。やらせっぽい胡散臭い撮影、あまりにもパワフルな撮影は本作唯一のコメディシーンなのだが、抑圧された者が微かに入れる小さなメディアの内側へ入り込み革命を起こしていく様は力強いものがある。しかし、それは数少ない成功例であり、メディアの外側には個ではなく単なる数として使い捨てにされてしまう存在がおり、高い志を持った監督ですら他者を蹂躙してしまう様が描かれている。
実際に映画ではマルティン・ハイデッガー「技術への問い」のような議論が行われている。ハイデッガーは技術とは何かを考えるにあたり、「集-立(Ge-stell)」という概念を提唱する。雨を溜めて貯水湖を作ったり、崖を利用してダムを作る。人間は、自然をコントロールすることでエネルギーを集めて活用とした。そうした時に、川などといった自然は、自然ではなくプロセスの一部となり、「川」や「崖」といった側面が隠されてしまう。人間は、自然を制御し蓄えることで発展していったが、産業革命以降、その概念は人間にも適用され、人間をエネルギーの一部と見做し蓄えるようになった。存在しているものを消費することで自然をコントロールする主人となるわけだ。消費される側となってしまった者は、自分という存在を隠されてしまう。ハイデッガーのいう「存在から見放されていること」となってしまう。この作品では、二組の夫婦を通じて資本主義による最適化の流れで「存在から見放されている状況」に陥った者の心理を捉えようとしているのだ。
そして本作は現代社会における連帯の難しさについても扱っている。これはネタバレになるため語ることはできないのだが、ここまで読むと労働者へ歩み寄り連帯していく内容に思えるかもしれないが、映画はスペクタクル的な連帯を拒み続けるものとなっており辛辣シニカルなクライマックスへと転がっていくのである。
そんなシン・デカローグ:ある連帯に関する物語ことイ・チャンドン最新作『もしもの愛』は一部劇場にて10月23日(金)より公開、Netflixでは11月6日(金)より独占配信。










