マーク・ブラウンとの七つの散歩(2025)
Sept promenades avec Mark Brown
監督:ピエール・クルトン、ヴァンサン・バレ
評価:95点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
日仏学院で第7回映画批評月間が開催されている。今年もマルグリット・デュラス特集に始まり、『メクトーブ、マイ・ラブ:第2章』と話題作が目白押しで熱い特集となっているのだが、なによりもカイエ・デュ・シネマベストに選出された謎のドキュメンタリー『マーク・ブラウンとの七つの散歩』が来ていたのが嬉しかった。『ある王子』のピエール・クルトン新作とはいえ、カイエ・デュ・シネマの詩的過ぎる語りからはどこかアラン・カヴァリエの日本未公開作『Le Paradis』に近いものを感じ日本に来ないと思っていたからだ。Peatixにて販売が始まると真っ先に本作のチケットを購入した。会社も休んで観たのだが、想像を遥かに超える傑作であった。
『マーク・ブラウンとの七つの散歩』あらすじ
在来植物を探す植物学者マーク・ブラウンとともに、エジエから彼の暮らす土地サント=マルグリット=シュル=メールへ、セーヌ川の谷から、ノルマンディーのコー地方の海岸線に沿って七つの散策を重ねながら、植物たちが撮影されていく——やがて「花々の夜明け」に原生林を再現するという壮大で奇想天外なプロジェクトが見えてくる。「七つの散策は、それぞれが生命のスペクトルを離れて存在する点同士の出会いとなっており、私たちの起源とは何かという問いを静かに呼び起こしていく」オリヴィア・クペール=アジャーン(『カイエ・デュ・シネマ』)
ナラティブから遠く離れて
上映前に映画批評家のカミーユ・ヌヴェールによる解説があった。彼女の話によれば、本作の発端は2006年にピエール・クルトンとヴァンサン・バレが制作した『L’ Arc d’iris – Souvenir d’un jardin』を観た古植物学者マーク・ブラウンが「ノルマンディーでもやってみないか?」と誘ったことにある。『L’ Arc d’iris – Souvenir d’un jardin』は、ヒマラヤ山脈のスピティ渓谷で3週間にわたるハイキングしながら花を撮影して行き、村人や僧侶の詠唱を重ねた作品らしい。
本作は、2023年ノルマンディー地方で7日間にわたってマーク・ブラウンの植物探求の旅を追っているのだが、アプローチが独特なものとなっている。映画は大きく二分されている。前半は、マーク・ブラウンを追っていくピエール・クルトン、ヴァンサン・バレの軌跡が撮影される。ノルマンディーの人の手がほとんど介入していない自然の中で、マーク・ブラウンが植物の蘊蓄を語る。その植物をフィルムで撮影していくのだ。自然の癒されるような音、静寂でありながら無音ではない心地よさの中で人工的なフィルムの音がカラカラと静かに鳴り響く。それを背後からデジタルで撮影する。その柔らかいイメージも相まって催眠的な空間が生み出される。
マーク・ブラウンは「この植物は《武器を持たない》んだ、でも人間が定住するようになって進化していったんだ」と語る。人の手がほとんど入らない場所とはいえ、マクロで捉えると地球温暖化などで土壌がアルカリ性から酸性に変わっていき、適応するかのように進化していった痕跡が提示されていく。
また、マーク・ブラウンが歩く場所は彼が専門用語を使って説明されなければ見えていたとしても「何もない」として素通りしてしまうような場所となっている。彼が「美しい」と言うことによって、その美しさが現出する。行こうと思えば行けるが、彼なしでは辿り着けない世界の美しさに感動するのである。
後半では、フィルム撮影された映像をほとんど無音の状態でスライドショーのように流しながら、マーク・ブラウンが辞書的に植物の紹介をしていく。カミーユ・ヌヴェールのようなフランス人でさえ、ラテン語名の羅列に「外国語を浴びているようだ」と思うほど右耳から左耳へと流れていく。ただ、興味深いのは先ほどまで我々が観ていた世界は表層的であり、マーク・ブラウンから観た世界は豊穣であったことがわかるのである。これは映画にしかできない業であろう。シネフィルが映画という言語を用いて思索する様を外側から観たら同じ日本語でも日本語に聞こえず、かろうじて表層の面白さを受容する程度に留まるが、当人にとっては深淵なる世界が広がっている。それを植物の世界へ位相をズラして提示しているのだ。
さらに本作が面白いのは、人間は定義された言葉を通じて思索する存在であり、定義された植物を特定することで素通りしていた自然に対する解像度があがる一方で、その定義は反対に人間を自然に立ち入らせることへと繋がるのだ。見えているようでなにも見えていない側面と定義されてしまうことで人間の自然に対する侵略を推し進めてしまう様が複雑に絡み合っているように思える。そして、マーク・ブラウンは淡々と一定の距離感で自然と向き合い、自然を知ろうとする。植物が定義され、「美しい」という言葉でコーティングされナラティブが形成されることによって観光となり植民地化されてしまう自然像、人間の豪の深さへのアンチテーゼとして本作は光り輝く者となっていた。
カミーユ・ヌヴェールは本作を「アテンションの映画」と語っていた。確かに本作は固有名詞によって影日向に咲く植物へと関心を向かわせる。だが、そのアテンションは容易な「エコ」であったり「環境問題」といったナラティブに落とし込まれることを拒絶している。映画はファスト人生であり、イメージを通じてナラティブを形成するものだが、アテンションエコノミーの時代。社会や政治が人間をエネルギーとして制御すべくナラティブで揺さぶろうとする中で映画ができることは何か?それはナラティブから遠く離れることだと思っている。
『シラート』『落下音』『AGON』もそうだが、今年の私の映画テーマに《ナラティブから遠く離れて》がある。『マーク・ブラウンとの七つの散歩』は、今の映画のあるべき道を示してくれる美しいエッセイ映画として煌めく宝石だといえよう。










