『本心』生きとし生ける者との重なりで生まれるグロさについて

本心(2024)

監督:石井裕也
出演:池松壮亮、三吉彩花、水上恒司、仲野太賀etc

評価:30点

おはようございます、チェ・ブンブンです。

わたしとの相性が最悪な監督・石井裕也の新作が公開された。『茜色に焼かれる』や『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』などキネマ旬報を始め、日本の映画批評界隈では賞賛されているイメージがあるが、社会的弱者の不幸を陳列しただけに見える物語性に始まり、セリフでベラベラと不幸を語っていく様、トリッキーな演出が効果的に思えない様子など自分には全く合わない描写のオンパレードになることが多く、たいていがその年のワーストとなる。ここ数年は、観てもいいことがないので避けていたのだが、平野啓一郎の「本心」を映画化してしまったため、仕方なく観ることにした。平野啓一郎の「本心」は『トランセンデンス』の日本版ともいえる作品であり、死者の魂をAIに語らせることができるのかを主軸としながらも、扱う領域はギグエコノミー問題やリモートワーク、メタバースなど多岐に渡っている。実際に平野啓一郎が提唱する《分人》の概念は「メタバース進化論」の著者であるバーチャル美少女ねむに影響を与えており、メタバース論、VTuber論を語る上で、平野啓一郎そして「本心」は重要な資料となっている。一方で、原作は主題である試写との対話が中盤以降大きく脱線し、富豪に飼われる展開へと転がっていく。散らかった物語となっているのだ、なので原作を読まずに挑んだ場合に、いつも通りの石井裕也クオリティ、不幸陳列罪映画に留まってしまうのだが、彼に原因があるというよりも原作に問題があるのだ。裏を返せば、不幸陳列罪な内容だからこそ石井裕也が監督したともいえる。

さて、実際に観てみると、案の定酷い作品であり、『バーチャルで出会った僕ら』やぽこピー動画、SNSにアップされるVRChat勢からの情報しか知らないメタバースエアプ勢の私ですら、ありえないだろうという仮想空間描写に衝撃を受けた。初期アバターでもケモミミ、幼女、美少女が使えたりするのになんで「アンシャントロマン」のおっさんみたいなアバターで池松壮亮は活動しているんだと驚いたのであった。

とはいえ、石井裕也監督作の中では『舟を編む』の次に面白かった作品であり、映画演出として、概念としての演出に光る場所もあったので、書いていく。

平野啓一郎『本心』感想

『本心』あらすじ

「月」「舟を編む」の石井裕也監督が池松壮亮を主演に迎え、平野啓一郎の同名小説を原作にデジタル化社会の功罪を鋭く描写したヒューマンミステリー。

工場で働く石川朔也は、同居する母・秋子から「大切な話をしたい」という電話を受けて帰宅を急ぐが、豪雨で氾濫する川べりに立つ母を助けようと川に飛び込んで昏睡状態に陥ってしまう。1年後に目を覚ました彼は、母が“自由死”を選択して他界したことを知る。勤務先の工場はロボット化の影響で閉鎖しており、朔也は激変した世界に戸惑いながらも、カメラを搭載したゴーグルを装着して遠く離れた依頼主の指示通りに動く「リアル・アバター」の仕事に就く。ある日、仮想空間上に任意の“人間”をつくる技術「VF(バーチャル・フィギュア)」の存在を知った朔也は、母の本心を知るため、開発者の野崎に母を作ってほしいと依頼。その一方で、母の親友だったという三好が台風被害で避難所生活を送っていると知り、母のVFも交えて一緒に暮らすことになるが……。

田中裕子が朔也の母役で生身とVFの2役に挑み、三吉彩花、妻夫木聡、綾野剛、田中泯、水上恒司、仲野太賀と実力派キャストが共演。

映画.comより引用

生きとし生ける者との重なりで生まれるグロさについて

冒頭、極めて映画的なショットから幕が上がる。池松壮亮演じる朔也が豪雨の中、川の濁流を見つめる。そこには母の姿があり、川へ入っていく。「おいっ!」と朔也が飛び込む。雨、母、朔也が飛び込み、死の川へと流されていく。死と悲しみを軸に3つの落下がひとつに収斂していくわけだが、朔也は救助され1年間入院することとなる。窓にはヴァーチャル映像のような現実感のない風景が映され、デジタルに四季が移ろいゆく。朔也だけが停滞した時間に取り残され、ようやく社会へ解き放たれると、「リアル・アバター」たる新しい仕事が普及していた。

自分ができないことを他者にやってもらいそれを受容する文化としてYouTubeがあるが、リアルタイムにインタラクティブに欲望を叶える存在として「リアル・アバター」がビジネス化され、Uber Eatsさながらギグワーカーたちがユーザーの指示に従い、旅をしたり高級レストランで食事をしたりする。自分の肉体と時間を差し出すのである。

原作もそうだが、ここにギグエコノミーのグロテスクさがあると辛辣に描かれている。リアル・アバターはユーザーから見下され、理不尽な要求に応えないといけない。せっかく応えたとしても「汗臭い」理由だけ低評価をつけられる。評価が一定水準以下となるとクビになるわけだが、ヘルプデスクに相談しようとしてもAI音声ガイドによって人間と繋いでもらえない。コールセンターには理不尽な要求が集まり従業員の心理的負担がかかるので、最近は一次受けをできるだけAIにしようとし、なるべく制御できない人間的な側面を仕事から取り除こうとする動きがあるが、その弊害を描いている。

この辺の描写は「不幸」をスペクタクル的に描きすぎている気もするが、実写として描かれたことでメタバースやVTuberにない状況の表現に成功している。朔也がクソ客に振り回されている中で、コインランドリーへたどり着く。そこには、清掃員あるいは女性客に対して暴言を吐く男がいる。この男を止めるべきかと悩む彼に対して耳元から「殺っちまえよ!」とユーザーが悪魔の囁きをする。このクソユーザーに対して、それまでは対立関係であったのだが、この場面では「男を止める」という一点で同じベクトルを向くこととなる。

また、別の場面でユーザーが女に告白するために朔也を使う場面がある。この時に、女からするとそのユーザーの本心なのか朔也の本心なのかが分からなくなる。これは、アバターに過ぎないものを纏っているメタバースやVTuberの世界とは異なる感覚だろう。VTuberの場合、アバターと配信者が混ざり合うことで他者との関係性が生まれ、時間の経過とともに配信者単体とは別の文脈が形成される。リアル・アバターの場合、生身の人間を通じて勝手に文脈を、アバター本人の意に反しつつも目の前で書き換えられるグロテスクさがあり、写実的な描写でありながら実際にビジネス化するのは難しいと思うものとなっている。

また、バーチャルフィギュア(VF)描写も興味深い。なけなしの300万円を使って自由死を選んだ母のVFを作る。VRゴーグルをかけると、母の姿が浮かび上がりインタラクティブに対話することができるのだが「なぜ自由死を選んだのか?」などといった本心に迫る内容はヌルっと回避されてしまう。母のようで母ではない存在との対話に耐え切れず、朔也はゴーグルを外してしまうのだが、母の残像は彼を追うようにイヤホンからドキッとする言葉が投げかけられる。この異様な体験から仮想/物理、どちらでの経験を現実とするかに迷い葛藤が生じるのだが、そこで家に移送路する女が機能する。この魅せ方に惹きこまれるようなものがあった。

しかしながら、過剰な程に「これが社会的弱者ですよ」と突き付ける描写、不幸の陳列には警戒するものがある。スペクタクルとして消費している感覚があり、そしてその魅せ方が悪い意味で記号的なのだ。例えば、本作では2度高級レストランで肉と赤ワインを嗜む描写がある。一度目は、リアル・アバターのメリットでありグロテスクな点でもある、ブルジョワの指示によって高級レストランで食事をする表現として使われる。これはありだと思う。しかし、二回目、英雄になった朔也に対して大富豪のイフィーから高額投げ銭を受け取った足取りで高級レストランへ行く場面がある。ここでも同じように肉と赤ワインを嗜んでいるのだ。高級レストラン描写として貧相に思えた。ここは背伸びして、謎のカタカナ料理や異様に長い名前の料理、あるいは芸術的過ぎてよくわからない料理を頼み、驚く、あるいはブルジョワ的生活の受容を描くべきだったのではと思ってしまった。

また、本作ではスプリット・スクリーンの使い方が酷過ぎる。ただ分割された画面に人を配置しているだけで、全く効果がないように思えた。うーん、石井裕也作品は苦手である。
※映画.comより画像引用