まる(2024)
監督:荻上直子
出演:堂本剛、綾野剛、吉岡里帆、森崎ウィンetc
評価:80点
おはようございます、チェ・ブンブンです。
荻上直子監督は、最近作風を変えたらしい。ここ数作、タイミングが合わず観られてない荻上直子作品だが、かつてのゆるふわごっこ遊びのテイストから変わり、スピリチュアルに対して皮肉をぶつけている、あるいは露悪的に描いているらしい噂を聞いた。最新作『まる』は観る予定がなかったのだが、「〇を描いただけの作品がもてはやされる様を描いた映画」と訊いて美術検定受験を控えている私は急遽観ることにした。〇を描いた作品が美術界で評価された例として吉原治良がいる。レオナール・フジタ(藤田嗣治)に意気揚々と作品を持っていったら、「他人の影響を受けすぎ」と酷評されたことをきっかけに、「人のまねをするな」をモットーとした作品制作に励み、具体美術協会を創設。〇を描いた作品を発表し、日本美術史に名を刻んだ人物である。この手のミニマルな作品に興味があったので観てきた。結構、周りでは評判が悪かったのだが、いい意味で裏切られた。ホラー映画として。
『まる』あらすじ
「かもめ食堂」「彼らが本気で編むときは、」の荻上直子が監督・脚本を手がけ、堂本剛が27年ぶりに映画単独主演を務めた奇想天外なドラマ。
美大を卒業したもののアートで成功できず、人気現代美術家のアシスタントとして働く沢田。独立する気力さえも失い、言われたことを淡々とこなすだけの日々を過ごしていた。そんなある日、彼は通勤途中の雨の坂道で自転車事故に遭い、右腕にケガをしたために職を失ってしまう。部屋に帰ると、床には1匹の蟻がいた。その蟻に導かれるように描いた○(まる)が知らぬ間にSNSで拡散され、彼は正体不明のアーティスト「さわだ」として一躍有名人に。社会現象を巻き起こして誰もが知る存在となる「さわだ」だったが、徐々に○にとらわれ始め……。
沢田の隣人で売れない漫画家の横山を綾野剛、沢田と同じく美術家のアシスタントとして働く矢島を吉岡里帆、コンビニ店員・モーを森崎ウィン、ギャラリーオーナーの若草萌子を小林聡美が演じる。堂本が「.ENDRECHERI./堂本剛」として音楽を担当。
コンセプトが手中になければ悪用される
美大を卒業後、アーティストのアシスタントとして安月給で働かせられ、アイデアもパクられている沢田は、他者や社会に期待しなくなり、魂を失ったかのように生活していた。そんな中、事故で骨折し、アシスタントをクビとなる。コンビニでバイトをしながら、悶々とした日々を過ごす中、アリが紙の上を這っているのに気づく。何気なく、アリを円の中へ閉じ込めようと絵の具で円を描き、なんとなくアンティークショップに売りつけると、知らないところでこの作品が高騰する。しかし、そんな彼に嫉妬、欲望、傀儡の手が忍び寄る。
本作は、芸術において実際に制作する者とキュレーター、そして作品を鑑賞する者の関係性を「コンセプト」を中心に風刺した作品であり、どこか星新一のようなダークさを秘めている。
まず、注目すべきは独り歩きする「円相」であろう。荻上直子は『バーバー吉野』や『かもめ食堂』など、人と人とが結びつくことで生まれる珍妙な関係性を描いてきた。初期の作品はゆるふわな雰囲気があったものの、よくよく考えればスピリチュアル系の気持ち悪さがあったような気がする。『まる』では、そのスピリチュアル系な気持ち悪さを前面に押し出しており、沢田が実践していることアンフォルメルだったりアクションペインティングだったりと吉原治良に近いのだが、劇中で言及されるのは悟りや真理、仏性、宇宙全体などを抽象的に表現する「円相」であることから明白だ。
沢田の描く、「円相」には無意識ながらコンセプトがある。それは「搾取され、ケガを負った弱者がアリという更なる弱者をイジめる」といったものである。実際に美術館に展示される作品には、絵の具と脚がくっつき死亡したアリの姿が確認できる。しかしながら、キュレーターの手によって作られるコンセプトは単純明快な「平和」であり、その単純さが国際的に評価され、人々はそのコンセプトを信じることとなる。そもそも、作品自体が切り刻まれたものであり、元々のコンセプトが崩れ去っているのだが、円というシンプルさから傲慢なキュレーターによって沢田のアイデンティティごと奪い去る状況に陥る。
そんな中で抵抗して自分色の「円相」を描いたところで、既にアートとしての「沢田」は実態からかけ離れてしまっているので、キュレーターから拒絶されてしまう。では、自分のコンセプトを打ち出せるのかと言えば、体感として河原温のように時間と作品を結び付けられそうなところまで行くが、言語化できないが故に、実感のない成功が漂う羽目となる。
そこに、綾野剛演じるメンタルクリニックに行った方が良い、漫画家としてくすぶり過ぎて統合失調症一歩手前の状態に陥った横山が粘着質に、嫉妬気味に絡んできて、「俺、沢田やるわ」とアイデンティティを奪おうとしてくる。逃げようとしても、依存気質な彼から逃げられず、黒沢清映画のキャラクター以上に対話できない痛々しさがホラーとして描き出されるのだ。
結局のところ、沢田が渾身の力でアート作品としての「沢田」を破壊しようとしたところで、キュレーター及び大衆の信じる「沢田」の物語が刻まれるだけとなっており、その切なさは『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に近いものがあった。
※映画.comより画像引用